夢を追いたい人

私の涙を吸収したティッシュが小さく弱々しい姿になっているとなんだかむしゃくしゃする。

夢や目標がない自分が情けなくてダサくて嫌いだ。「夢がない人 ださい」と検索して傷をえぐってしまった。夢がない人とは関わるな!という記事も見つけてしまい、うんまあたしかにそうだよなと言い返すことさえできなかった。

今の私は言い返す気力もないくせに、自分のせいで弱々しい姿になったティッシュには強気になってしまう。こういうところがよくないのだろう。こういうところがどういうところかも理解してないくせに、適当にこういうところがよくないと言ってしまうところが本当のよくないところだ。

なにか才能が欲しかったな〜と寝転がりながらさまぁ〜ずチャンネルを見ているようでは、何も変わらないのだ。さまぁ〜ずとコカドが食べ比べをしている姿をニヤケながら見ているうちに、夢を持っている人は夢に向かって努力をしている。

私は才能がある人はそりゃ努力したら楽しいだろうななんて最悪な考えをもってしまった。努力をしたことない怠惰な人間である私は、相当落ちぶれている。学歴を意識していない、向上心がない、そんな私は、なんとなくの頑張りで高校も大学も合格し、今を生きている。当たり前に挫折した経験もない。高校三年生の時に、最も愛していた京都在住のニートに振られてしまったことが最大の挫折である情けない人生だ。

何かに向かって努力をしたい、挫折を経験したい、それなのに、その何かが見つからない。なぜみんな夢や目標を抱けるのか。どのタイミングで見つかるのか、誰が教えてくれるのですか。

こんな時も他人に縋ってしまう癖が出ている自分が嫌だ。自分の夢くらい自分で選ぶべきだ。というか、自分の夢くらいしか自分で選択できないだろう。

小学生の頃は、大金持ちになりたい!と大きな夢を語っていた。今の私は、非現実的であるしそこまでの大金を稼ぎたいとは思わない。平凡な暮らしがしたいと考えている。ただ、幸せになりたいなという気持ちは一貫している。小学生の頃は大金持ち=幸せという考えだった。そんな気がする。今はお金がたくさんあるということが、必ずしも幸せに直結するわけではないとなんとなく気がついてしまった。

夢は幸せになることですというのはあまりしっくりとこない。自分が思い浮かべている幸せを具体的に出せばいいのかもしれないが、自分の幸せすらよく理解していない。自分にとっての幸せとは何か、ということから探し出さなければいけない。

はやく夢を見つけて、目標に向かって努力がしたい。人生において、努力は生きる源であるような気がする。

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