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劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデンを見ました

アニメのためなら朝起きれるよ、オットセイです。
痛ましい事件だったりコロナだったりで延期を経て無事公開されました、ヴァイオレット・エヴァーガーデンの映画を昨日見てきましたので感想をば。

TVシリーズを見たのも今年5月と最近で、理由もこの映画を見にいくのを見据えてみたいな所があったので映画館に足を運ばないという選択肢はありませんでした。
別にうおおおおおおおおおおおおおバイオレエバガデさいこおおおおおおおおおおおおおおみたいな特段の思い入れがあるわけではないんですけれどね。
純粋にしみるいいアニメって認識です。
各エピソード綺麗にまとまっていて中身がありますし、何より圧倒的な作画の“力”があるので。
仮に中身なペラペラだったとしても美麗な映像を見るために行くまでありました。
TVシリーズの感想はこちら(自然な誘導)



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ということで朝からテンション高めの漏れ。
見るのが最速に近くなったのは予定合わせてたらたまたま早くなったってだけです。早い方が感想の需要もありそうだしワース。
朝イチの上映で見たのですが、コロナ禍の影響があるとは思えないくらい座席がパンパンでした。
あと女性客が凄く多かったですね。
普段僕が映画館で見るような映画はオタクくん向けのものしかないので多く感じたのかもしれませんが、にしても半数か過半数以上は女性だった気がします。
やっぱ泣けるとか感動系の作品は女性人気が強いんですかねえ。

で、感想なんですけれど。
ふつ〜〜〜〜〜にえがった。
期待値を大きく上回るわけではありませんでしたが、期待通りの作品の完成度でした。
むしろ期待値高めだったので、かなり良かったと言えるでしょう。満足満足。

映画までと同じく、代筆のエピソードからヴァイオレットが成長していくお話です。
まずこのエピソードが作品を通してトップクラスに泣けるもので。
重なる部分があって個人的には一番刺さりました。涙うるうるです。
なので映画単体としての価値もバツグンであり。

そしてなにより、ヴァイオレット・エヴァーガーデンという少女の、ヴァイオレット・エヴァーガーデンという作品の物語の終わりを描いた映画であり完結篇です。
終わり方もそれに向けての流れも美しく、まさに有終の美を飾ったと言える出来。
なので、TVシリーズを最後まで見た人がこの映画を見ない理由がありません。
是非この物語の最後を美麗なアニメーションで見届けてください。

ただ、映画館で見たい方が良いかと聞かれるとなんとも微妙なラインです。
今回アクションシーンは回想でちょびっとくらいでないに等しく、いくら作画が強いったってそれはキャラ作画や背景の細かさであり、迫力がすごい!というわけではありませんから。
良いものなら尚更見る画面はデカけりゃデカいほどいいって人は映画館に行けばいいと思いますし、しっかり作品を受け止めるために画面全体から細かい部分まで見れるようにしたいという人は後ほどBDやストリーミングで見てもいいと思いますし。
正味人それぞれです。
一つ言うのであれば、途中で挿入歌が入るシーンのエモさは映画館かそうでないかで結果雨変わってくるかもしれません。

それでは以下細かい感想です。ネタバレ注意で。











映画は時代設定のはるか先、アンの孫娘デイジーの視点から始まります。
アンの母から誕生日になるたびに送られてきた手紙を見つけ、そこから回想に。あとから展開する映画のエピソードに内容が近いというのもあるでしょうが、やっぱりTVシリーズ放映時に一番反響があったのが10話だったというのを自覚してのことでしょう。
僕もそうでしたし、友人とヴァイオレットの話するとやはり10話が真っ先に出てきますし、みんな考えること感じることは同じですね。
大多数の人はTVシリーズを見たのは2年でしょう、最も印象に残っているエピソードを皮切りに回想に入ることで記憶が掘り起こされるはずです。

タイトルコールを挟んだ後最終話のその先にある緩やかな日常を経て、今回の代筆依頼者であるユリスとヴァイオレットが出会います。
思春期の男の子らしくどこか反抗的なユリスですが、少しだけ歳不相応な知的さを感じさせられます。
実際、やや難しい言い回しをするユリスからヴァイオレットは新しい言葉を学び、メガネをかけて新聞を読んでいる描写から語彙の豊富さが裏付けされているのかなと。

して、ユリスの家族が登場するのですが。
弟がクッッッッッッッソかわいいんですわこれが。スクショを載せられないのが残念で仕方がない。
ぱっと見3-5歳くらいで、大好きなお兄ちゃんを心配するその姿は純心オブ純心のそれ。
素直になれないユリスに冷たくあしらわれ、泣きかける...いや泣いてしまうんですけれど、その姿を見せまいと親に抱きついて顔を埋めプルプルする姿はもう愛玩動物レベルの可愛さです。
オタクくんはロリショタの背伸びには弱いゆえ...(弱点属性多すぎくん)

映画は中盤、一通の手紙から物語は本題へと移り始めます。
ギルベルトがまだ生きているかもしれない、と。
そのお話のための映画に何いってんだって感じですけど、この手の話って死んだはずの奴がが実は生きてた!みたいな展開多すぎません?
あれだけ満身創痍で劇的な別れを遂げた後生きてましたってのはかなりのご都合主義みをどうしても感じてしまいます。
まあガバ突っつき始めたらキリないのでここまでにしますが、思ってしまったことなもので。

ギルベルトの字に気づいたホッジンズは、迷いながらもヴァイオレットにその可能性を伝えます。
ちょっと意外でしたね、裏付けも取らずに伝えちゃうんだって。
ヴァイオレットの少佐への想いを誰よりも近くで見てきた人でしょうから。
いや、もはやその字がギルベルトの物だとほとんど確信してのことだったのかもしれません。それだけ親しい間柄だったことも肯けますし。
伝えることを迷っていたのも、「確かかわからないことを伝える不安」というよりは「一人で新しい道を歩き始めたヴァイオレットに言う必要があるのか」という迷いだったような気がしますし。
それを聞いたヴァイオレットは今すぐにでも飛び出しそうな感激ぶり。そりゃあそうでしょうね。
どれだけドールとしての仕事をこなしていこうが、彼女にとっての優先順位一番は少佐なのですから。

2人はギルベルトと思われる人物がいる島へ着きます。
ここで印象に残っているシーンがありまして。
それはホッジンズがギルベルトと再開するシーンでも、ドア越しにヴァイオレットがギルベルトに語りかけるシーンでもなく。
学校に入るとき、ヴァイオレットに待っているよう話すホッチンズの会話のシーンです。

ギルベルトが生きているかもしれないとわかってから、ホッチンズはずっと居所の悪そうな顔をしていました。
それはそうでしょう。死んだ(と思っていた)ギルベルトから解放し、己の人生を歩んでほしいと願ってヴァイオレットを見守ってきたのですから。
それでもやはり彼女からギルベルトの存在が少しでも薄れることはなくて。
手紙のことを伝えてからのヴァイオレットの立ち振る舞いでそのことを嫌でも分らさせれることになります。
結局、ホッジンズが目指したヴァイオレットの将来にすることはできなかった。
負けたんです。

それで、ギルベルトに会うまで苦虫を噛んだような顔でずっといたのホッジンズでしたが。
あの校門前のシーンでヴァイオレットの想いの強さを再確認し、表情が変わります。
ギルベルトと会わせるか悩んでいた彼もヴァイオレットの想いに応えようと吹っ切れた、そのように僕には見えました。

気持ちを固めたホッジンズはギルベルトと再開しヴァイオレットのことを話します。
しかし、会いたくはないと。
温厚なホッジンズとは思えないほど感情を露出してぶつかりますがギルベルトの決心は固く、この悲しい事実をヴァイオレットに伝えることになってしまいます。
それを聞いて走り出すヴァイオレット、そしてその後雨の中ギルベルトに語りかけ走り去るヴァイオレット、この二つのシーンに共通して象徴されるものがあって。

それは、置き去りにされる彼女の大きな鞄です。
戦後に彼女が歩み培ってきた代筆仕事。
仕事道具が入っていていつも手に持っていたその鞄のことなど一切目に暮れず走り出したんです。
人間的に考えると、ただ単にヴァイオレットにそこまで考える余裕がない状態だったということでしょう。
でも僕には、あることを示唆しているようにしか思えませんでした。
上記にもあるように、ホッジンズが目指した彼女の新しい人生であるドールの仕事。
順調に成長をし仕事を通じて多くのことを学び、軌道にも乗ってきたにもかかわらず...
捨てさせたかったギルベルトへの執着には勝てなかった。その敗北の象徴があの鞄と言えるのではないんじゃないですかね。

映画は山場へ。
ヴァイオレットにユリスの危篤が伝えられます。
親友のリュカへの手紙をまだ書き終えてないヴァイオレットは急いで戻ろうとしますが、遠い島からでは間に合いません。
ここで、おっ、ギルベルトからドールとして生きていく方に傾いたのか?と思いましたね。
傾いたというよりは、ギルベルトへの自分への態度に錯乱してぐるぐる回っているといった方が正しいかもしれませんが。

間に合わないことを受け入れたヴァイオレットは代役にアイリスとベネディクトを回して、手紙ではなく電話で直接リュカと話すよう手筈を整えます。
言えなかったごめんなさいとありがとう。
それを伝えたユリスは安らかな顔で息を引き取りました。

この映画を通じてのテーマは声です。
声を使って話しかけるのも、紙に綴る手紙も、使うのはどちらも同じ言葉。
主題歌であるWillの歌詞からもダイレクトに伝わってきます。
良いですよねこの展開。
ここまで手紙を大きなテーマとしてやってきて、映画の序盤では電話にドールの仕事が奪われつつある現状まで描写した上で、ユリスの最後にヴァイオレットが一番良いと思ったのが電話を使って直接肉声で伝えること。
ギルベルトのあいしてるが分からず、何も伝えられなかった、何も言えなかったヴァイオレットからすれば、死んで直接話せなくなる前に話せること話しておくべきだと、そう思ったのでしょう。
せっかく再開して伝え直すチャンスがあっても伝えられなかったならば尚更です。
話せる間はきちんと話しておく。手紙はそれからで良い。

そこからはユリスが死後渡すよう家族に宛てた手紙が渡されます。
もうね、ここで涙が溢れて仕方がありませんでした。
言ってしまえばどうってことない展開なんですよ。手紙の内容だってありきたりでベターもベター。
それでも、小さい少年の理不尽な死と、残した家族への愛情を見せられたら...泣いてしまうでしょうが。
全エピソードを通じて一番感動しましたね。
やっぱ弟がね。歳の離れた弟が大好きな僕と重なるところから個人的にブッ刺さりました。
周りのお客さんは小さい嗚咽をあげて泣いている人もいました。
間違いなくこの映画のピークでしょう。

ユリスのエピソードを終えて物語はヴァイオレットに戻り、完結へと向かいます。
ギルベルトの元を去ろうとするヴァイオレットはギルベルトへ手紙を残します。
この時僕は完全にドールとして生きていくことを彼女は選んだものと思っていました。
ギルベルトに手紙が届く前に、ディートフリートが現れます。
弟に多くの重荷を背負わせてしまったことへの謝罪と、ヴァイオレットへの態度への怒りを表すディートフリート。
彼のギルベルトを見る目は、ヴァイオレットを見るホッチンズのものと全く同じでした。
自分のせいで軍人にならざるを得なかったギルベルト。
不幸な環境から戦場に出るしかなかったヴァイオレット。
ディートフリートの視点から見るギルベルトを考えると、二人は似たもの同士だったのかもしれません。

そしてヴァイオレットの手紙がギルベルトの元へ届きます。
ギルベルトが作った機械でゆっくり届くというのがまた洒落てますね。こういう細かい演出がエモいわけですよ。
手紙の内容はある1フレーズの印象が強すぎて、もうそれしか覚えていません。

「あなたの“あいしてる”が道標」

手紙を読み終えた後流れる、茅原実里の『みちしるべ』
最高レベルの繊細で描かれる夕日と海岸をバックに。
もうエモエモのエモです。
アニメのEDだったみちしるべですが、映画のために元から用意されてたんじゃねーかってレベルで解釈一致すぎる。いやそれを見越して用意されていたに違いない。

手紙を読み終えたギルベルトは走り。
走るギルベルトに気づいたヴァイオレットは海に飛び込み。
映画らしい劇的な再会を果たすこととなります。
普段の振る舞いからはまるで想像できない、感情が溢れ出して何も言えなくなるヴァイオレット。
そこにいるのは凄腕の少女兵でも人気自動人形でもなく、ただの年相応の女の子のそれでした。
ずっと分からなかった、分かって伝えたくても伝えられなかった、「あいしてる」
多くの障壁を乗り越えて、ヴァイオレットはやっとその言葉を声でギルベルトに伝えることができました。
手紙が2人をつなぎ止め、声で伝える言葉で2人は結ばれる。
これで、ヴァイオレット・エヴァーガーデンの物語は終わりです。

文句のつけようのないあまりに綺麗な結末と終わり方でした。
視覚的にも物語的にもね。
でも僕はもう一つの可能性にすごく肯定的だったんですよね。
ドールとしての人生を取って、手紙を残してあのまま離れるヴァイオレットが。
それはそれでエモい結末だったと思うんです。個人的にはこっちの方が好き。
多くの人は映画の通りの方が好みでしょうかね。ほらオタクくんってすぐ逆張りするから...

なんなら途中まで本当にそうなると思ってたくらいなんですけれども。
上記にある通り、てっきりギルベルト>ドールの人生という強弱が反転したものかと。
あと、ギルベルトがヴァイオレットに伝えた「あいしてる」は、男女のというよりは父性から来る家族的なものだと思っていた節があったので。
ま、それだと18でドールをやめたってのに辻褄が合わなくことに割とすぐ気づいちゃったんですけれどね。
最初から最後まで、ヴァイオレットが「あいしてる」を知り、探し、想い、伝えるまでの物語だったということです。

以上感想でした。
いや〜えがった。えがったね。
ユリスのエピソードで泣けるから映画単体でもヨシ!
クッソ綺麗なハッピーエンドに完結編としてもヨシ!
やっぱ最後の最後まで映像化してくれて、それを見届けられるのはそれだけで気分がいいってもんです。

それでも、どうしてもユリスが死ぬ時が一番のピークすぎてそっちに持ってかれてしまった節がありました。
後半は感動するとか泣けるとかではなく、ただただエモいエモいの連続でした。
ヴァイオレットにゴリゴリに感情移入できていた人はまた違ったのかもしれません。
僕はどちらかというとホッジンズの視点になっていたところがあったのでね、感想もそれ関連が多めになってしまいました。

手紙という明確なテーマを持ってきて最後の最後に声で伝えることの尊さをぶち込んできたこの映画ですが。
やっぱりヴァイオレット・エヴァーガーデンは手紙を中心に回ったお話でしょう。
声は残らないけれど手紙は残る。
残された手紙を見たことで、デイジーはヴァイオレットの元に行き着いた訳ですから。
結局ギルベルトの元に行ってもヴァイオレットは郵便の仕事を続けていた訳ですし。
ヴァイオレット見たらやっぱ大切な人に手紙送りたくな〜〜〜〜〜〜らないかな別に。
大切な人なんて実家にいる家族くらいしかいないですし。
普通に恥ずかしいや。ここで素直になれないのもまたオタクくんなのであります。





 

ここからは完全に蛇足。
この映画が公開されるまでに当たって、痛ましい事件がありました。
アニメに興味がない人でも耳にしたであろう、京都アニメーション放火殺人事件。
尊敬する優秀なクリエイター36人の命が奪われました。

作品に現実のことを持ち込むのは無粋だと重々承知です。
それでも、それでも思ってしまう。
作品でこれだけ美しく描かれる人の死も、現実は全くそんなことないんだって。
炎に焼かれた犠牲者の人々は、大切な人に言葉を伝える時間はあったのでしょうか?
手紙を残す用意はあったのでしょうか?
ないでしょうね。
そのことに怒りが収まらないとか、同情して悲しいとか、そういう感情ではもはやありません。
フィクションとは違う。
ただただ現実は理不尽で、醜くて、センスのかけらもなくて。
だから、現実は嫌いだ。


オットセイに課金してもガチャは回せません。