風邪の日の白桃缶、ブランデーミルク

風邪をひいた日の朝は、いつもとは何か違う。
体温計に出る数字が今日はどこにも行けないことを教えてくれる。
寒いくせに火照る、浮き足立った体と
窓の外の通学中の小学生の声が世界から自分を孤立させる。
孤独を好む人種からするとこの上なく心地いい瞬間なのだが、身体の危機から来るものなのか、出どころ不明の寂し差が背後から顔を出す。  

風邪の日は一種の季節や行事のようなものだと思っている。夏に食べるもの、正月に食べるもの、運動会の日に食べるもの、というように風邪の時に食べるべき食事が決まっている。その上、行動や風邪の時にしか見かけない体温計や氷枕などの用具の存在も相まって特別感が存在するからそう思うのだろう。 

風邪の日の食べ物は、特別な味がする。

もちろん、食材が違うならそれはそうだろう。しかしそれだけではなく、いわゆる「優しい味」のようなものがある気がするのだ。なにか感情に影響する成分が入ってるんじゃないかと疑うほどだ。
 勿論これは自分の幼少期の体験に影響されたから起こる感覚だと思う。でもそれだけでもない気もするのだ。

 例えば、絵本。クマの子が風邪をひいたらはちみつ入りのミルクをお母さんが作ってくれるというような水彩タッチのものを読んだ記憶がある。低学年の時に読んだ教科書にも似たような内容の文章が載っていた気がする。

 こういった「かもしれない」や「気がする」の積み重ねが振る舞われるべき優しさとして、自分の体験の何倍も大きくなって成長してからも居座るのだ。
1人で暮らし始めても、酒が飲めるようになっても。
 
サマーコンプレックスに代表される私達のこういった幻覚は善意から優しさを提供してくれるのだが、
それはしばしば痛みを生むのだ。


三秋縋 いたいのいたいの、とんでゆけ
における特別な食べ物たち


三秋縋さんのいたいのいたいの、とんでゆけという小説が、この風邪の時の優しさという概念をとても効果的に表していると思う。

 この作品の中で繰り返される緊張と弛緩。二人が束の間の安堵を噛み締める場面に出て来るのは主に睡眠、そして食事だ。

 作中にはチキンヌードルスープ、ブランデーミルクが登場する。
 チキンヌードルスープは海外で主に風邪の時に食べられるものだそうだ。ブランデーミルクは言うまでもなく安眠に効果のあるものだ。
 
私はこういった風邪の時に食べるものという認識のものを希死念慮を打ち消すために食べる事がある。優しさや温もりがこもっていると思っているからだろう。この作品を飲んでから深夜2時に飲むものが水道水からブランデーミルクに変わったのもきっとそのためだ。似た境遇の他者から優しさの取り方を学び、真似ている。

 主人公とヒロインはおそらくこういった愛情を人並みには受けていない。
自分と同じような人への優しさは自分を慰めることになると思う。
自分がして欲しかったこと、手に入れられなかったものを他人を通して補給しようとした行為なのだと思う。
当時受け取るべきだった温かさはそのままに。
 
 弱っている時の優しさは、案外いつまでも覚えているものだ。心当たりがある人もいるのではないだろうか。
 そしてそれに縋ってしまう、きっと弱いからなのだろう。付け込まないように、付け込まないように気をつけて生きないとなぁと思う。
 もし死ぬまで騙してくれるなら、それはそれでいいのだとも思うが。


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