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銃は日本史も変えた?

戦国大名の中でいち早く銃を取り入れたのは、織田信長でした。なぜ信長は銃の導入に積極的だったのでしょうか?

なぜ信長は銃を導入した?

その理由は、信長の組織運営にあります。徹底した能力主義を採った信長は自国の領土(尾張)以外の国からも、積極的に人材を受け入れました。明智光秀や羽柴秀吉などが有名です。しかし言い方を変えると、信長の軍隊は「多国籍軍」のような状態でした。

多国籍軍の問題点は、寄せ集め集団であること。戦においては、出身地による言葉や戦い方(戦術)に違いがあり、味方同士の意思疎通もスムーズにできません。緻密な戦略に基づく有効的な戦い方は不可能になってしまいます。

こうした問題点を受け、信長はどのような人間でも簡単に操作できる「銃(鉄砲)」を導入し、戦術の“簡略化”に成功しました。

銃弾のスピードには、馬も敵いません。鉄砲を用いた戦術によって、当時最強と恐れられていた「武田の騎馬隊」を撃破した「長篠合戦」は有名です。

なぜキリスト教の布教を認めた?

信長はイエズス会によるキリスト教の布教を容認しました。この背景にも、鉄砲の存在が深く関わっています。

銃を使用する時に必要な火薬は日本に存在せず、海外から輸入するしかありませんでした。信長は火薬の原料である硝石をイエズス会から入手するため、硝石との交換条件として、イエズス会の布教活動を認めました。

なぜ信長は仏教勢力と対立した?

硝石の輸入窓口は大阪の堺でした。豊臣秀吉が大阪城を建てる前、堺を支配していたのは浄土真宗の石山本願寺になります。本願寺は堺の商人との関係を深め、関西近辺の硝石貿易を独占していたのです。

当時の仏教勢力(寺社)は、宗教活動だけではなく経済活動にも関わっていました。戦国時代の寺社は、現在に例えるとGoogleやAmazonのような最先端技術を扱っている組織になります。

「遣隋使」や「遣唐使」という言葉が有名ですが、日本の僧侶たちは定期的に中国に留学し、仏教の教えだけではなく、中国から様々な技術を学んできました。寺社はそうした技術を「特許料」として商人に売りさばき、莫大な利益を上げていました。

しかし結果として、物価の上昇を招き、庶民の生活を苦しめることに…。

信長がイエズス会の布教を認めたこと、そして「楽市楽座」という経済政策を実施した理由は、経済を独占する寺社勢力に対抗するためだったのです。

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