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#15 大人の社会科見学 アウシュビッツ訪問記


 仕事の関係で欧州の一国に赴任した際、休暇を利用してポーランドのアウシュビッツ強制収容所跡地を見学してきました。EU統合の原点とも言えるアウシュビッツ強制収容所を実地検分することで、まさに世界史の大きな流れを垣間見ることができると思ったからです。
 戦争の歴史を伝える上で欠かせない存在である生存者たちが高齢化する今、歴史を伝える担い手は、戦争を経験していない世代に託されようとしています。実際、アウシュビッツ博物館で現在案内をしているガイド260人全員が、戦争を経験していないといっていました。
 それでは、戦争を経験していない我々の世代はどのように歴史と向き合い、伝えていけばいいのか。史実をしっかり伝えていくことは、現代社会が抱える問題について議論していくことのベースになることだと思います。特にヨーロッパの人々が、人種差別やユダヤ人問題というタブーに近い、難しいテーマにあえて立ち向かい、EU統合を進めるのは、アウシュビッツの迫害の歴史を理解した上で、そこから今現在社会に山積している問題に立ち向かっていくために、戦争を経験していない世代が考えて行動を起こす原点になるのが、この人類の負の遺産であるアウシュビッツであり、そこに直接見学する意義を感じました。


1 アウシュビッツ強制収容所について

 アウシュビッツ強制収容所とは、ポーランド南部オシフィエンチム市に作られた、第二次世界大戦中のドイツナチス政権が推進した人種差別的な抑圧政策により、史上最大級の犠牲者を生んだ強制収容所のことです。アウシュビッツとは第1~3まであった収容所の施設群の総称を指します。(時代背景として、1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が始まりました。アウシュビッツは最初、ポーランド人政治犯を収容するため作られたものでした。しかし、ナチス政権は時間が経つとともに占領したヨーロッパ各地からユダヤ人などをアウシュビッツに送り込み、少なくとも130万人が連行されたと言われています。

 第一収容所には、ポーランド軍のかつての兵舎があてられました。ここに収容しきれなくなったので、近くに第二収容所をビルケナウに作ったのでした。そこに鉄道の引き込み線が引かれた「死の門」はあまりにも有名です。

2 アウシュビッツ強制収容所を見学して

 まず、入館に際して警備が非常に厳重でした。大きな荷物は持ち込めず、預けなければならず、持ち物の検査も行なわれていました。アウシュビッツは多くのユダヤ人が訪れるのでテロの標的にされてもおかしくないため、警備を厳重にしているのでした。


第1収容所(アウシュビッツ)

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 最初に目に入ったのは、収容所のゲート「アルバイト・マハト・フライ」(見出し写真参照)は「働けば自由になれる」の意味です。
 入った瞬間、言いようのない重い雰囲気が漂っていました。「なまりを腹に流し込んだような」なんともいやな気分になりました。第1収容所は、煉瓦立てのかなりしっかりした建物なので、多くの棟が現存していました。(下の写真参照)その中は主に今は博物館になっており、収容されていた人々の遺品が展示してあったり、貴重な写真をもとにここで何が行なわれていたのかくわしく説明してありました。

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 幸い、私はポーランド政府唯一の公認日本人ガイドのNさんに一日プライベートガイドをお願いすることができたので、展示物の説明等をかなりくわしく日本語で解説していただくことができました。
 ここに連れてこられた人々には道がふたつに分かれていました。多数は収容すらされない道を歩かされたそうです。それはそのままガス室に続いている道でした。当時のガス室が厳然と残っていました。ガス室はただ無機質な灰色のコンクリートの壁と数本の柱で支えられ、天井には毒ガスが投げ込まれる穴が数カ所開いていました。シャワーを浴びるという名目で、ここで裸にされ、次に天井に開いた穴からチクロンBという殺虫剤に使われていた有毒物質が投げ込まれたそうです。空気と反応して死のガスとなり、人々はすし詰め状態のまま死んでいったのです。遺体は機械的に焼却され、煙突からは煙が絶えなかったと言われています。

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大量殺戮のために使われたチクロンBの入っていた空き缶


第2収容所(ビルケナウ)

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 ヨーロッパ各地からユダヤ人を運んできた貨車

 殺りくの規模がさらに膨らんだため、ヨーロッパ各地からユダヤ人たちがこの貨車で第2収容所まで運ばれてきました。

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第2収容所の引き込み線(ユダヤ人を乗せた貨車の終着点)

ここでも死の選別が行われ、労働に「使えない」と判断された主に子どもや老人、女性が直接ガス室に連れて行かされたそうです。「収容所が満杯だから」というときには選別すら行なわれず、全員がガス室に送られました。ビルケナウの広大な敷地を見て回りながら、足がどんどん重くなってきました。
 ここでは、主に木製のバラックで収容棟が建てられていたので、棟自体は今は残っておらず、現存するのは各棟の煉瓦で作られた暖炉と煙突のみが整然と並んで立っていました。
 展示棟の中には、遺体からはぎ取られた髪の毛の束が、うず高く積まれていました。これでもごく一部だそうでした。髪の毛は繊維製品などの原料として「出荷」されていのです。金歯や銀歯なども同じです。カネになるもの、原料になるものは人体から容赦なくはぎ取られそうです。
 この遺体からはぎ取られた金は、いまの私たちの身近に流通しているかもしれないと考えると、アウシュビッツの悲劇は現代にそのままつながっていることを実感できました。アウシュビッツは、人体を原材料とした巨大な工場のようなものだと感じました。

3 見学を振り返って

 見学前から抱いていた私の疑問、「同じ人間がどうしてここまで残虐な行為に手を染めることができたのか。」について収容所内を回りながら、Nさんにその疑問を解明するヒントをもらうことができました。それは、収容所のドイツ人職員は、精神的な罪悪感にさいなまれることがなかったというのです。所長以下職員はすべて自分の家族を愛するごく普通の人間だったと言います。普通の人間がこれだけの殺戮をしてしまったことが、アウシュビッツの恐ろしさの本質であると思いました。それは、ガス室送りか労働させるかの死の選別は、ドイツ人の軍医が行いましたが、それ以外のガス室に誘導するのも、同じ仲間をガス室に閉じ込めるのも、死んだ後の遺体をかたづけるのも、遺体を焼却するのも、焼却した骨を細かく砕くのも、砕いた灰を処分するのもすべて収容したユダヤ人にさせていたのです。また収容所内の生活の監視や、バラックの増設、畑で野菜作りなどすべてユダヤ人に管理・運営させていたのです。これは、人間の心理を巧みに利用した収容所のシステムの構築があったからなしえたことです。ガス室行きを免れた収容者には階級のようなものが与えられ、精神的な満足を与えると共に、まとまった暴動が起こることを抑止していたそうです。階級のようなものを与えられた収容者は、自分たちも同じ運命をたどることがないようにするため、ドイツ人職員に積極的に協力し、同じユダヤ人の収容者を管理・統制していったと言うことでした。またそれとは対照的に、懲罰による統制も行なわれていました。ただ体力を消耗させるだけの労働(穴を掘らせ、それをまた埋める作業を無意味に繰り返す)、むち打ち、飢餓刑、立ち牢などが行なわれていました。(実際の部屋が残っている)また定期的に見せしめに銃殺刑が行なわれ(銃殺場も残っていた)、収容者は毎日恐怖にさらされていたようでした。そんな精神状態の環境におかれて、わずかな希望や、階級による少しばかりの優越感を与えることで、収容者の心を巧くコントロールしていたのです。
 また当時の社会的な背景として、第二次世界大戦前のドイツには自由も民主主義もあったはずです。歴史上はじめて社会権を認めたワイマール憲法が作られたのはドイツでした。しかし、第一次大戦後の天文学的な数字の賠償金を連合国に課され、それに世界恐慌が重なり、当時のドイツ国民は生きていくのに必死でした。そのため、ヒトラーに政治を任せてせっかく獲得した民主主義を放棄していったという歴史的背景があります。1933年にナチス・ドイツが政権を獲得した時、彼らの得票率は約3割だったと言われています。しかし、3割の勢力で十分だったのです。ヒットラーは当時民主的な選挙で選ばれた首相であり、この民主主義の国で起こったと言う事実が何を意味しているのか、我々は考えて行動していかないとまた同じ歴史を繰り返してしまうと強く思いました。またこの歴史は、自由や民主主義を保つバランスが急に崩れることがありえることを意味しています。
 ナチス・ドイツに限らず、人間とはそうした愚かな行為に走る可能性を持った存在なのだと、そのありのままを、アウシュビッツは我々に教えているのです。今の時代も、私たち人間は同じ心の弱さを持っているはずです。これは、あえていうならいじめであったとも言えると思いました。一国家が国を持たない一つの民族を抹殺しようとした規模の大きいいじめのようにもとらえることができると思いました。誰かを見下すことで、自分の優位やプライドを守ろうとすること。人を押しのけてのし上がる社会や経済の構図、物がなくなるかもといった情報がちまたに流布しただけで買い占に走り自分の利益を優先してしまう人間の性(さが)。今の日本は戦争の状態ではないから「良心」や「道徳」がある程度人々の行動の歯止めになりますが、その歯止めは私たちが思っている以上に脆いものかもしれません。
 最後に、民主主義の恐ろしさは、一つの大きな流れの中で人々が思考停止してしまうと、まちがった道へ一気に転落して行ってしまうこと。そうならないために真の民主主義を実現するには、歴史の原点を知るだけではなく、一人一人の思考と判断が問われていることはまちがいありません。それが実現できなければ残念ながら、おそらくまた「歴史は繰り返し」てしまうのでしょう。今後グローバル化が一層進むにあたって、日本人が今あいまいにしている同じような問題にも、欧州の人々同様にしっかり向き合わずには避けて通れない日が間もなく到来するのではないでしょうか。アウシュビッツの負の遺産は、非常に多くの教訓を我々に語りかけていると思いました。

 私がYouTubeに投稿しているスライドショーをご覧下さい。


4 後記(ポーランド政府公認ガイドNさん曰く)

 『生存者は体験談も書いているし、証言も多く残っているし、資料はたくさんあります。でも一つ問題は、戦争を経験していない世代がその資料を読んだからとか、証言を聞いたからとかで勘違いして、「わかったふり」をしてしまうこと。つまり、自分がいかにも経験したように話してしまうことです。これは危険です。なぜ危険かというと、嘘をつき始めてしまうからです。訪問者が聞いてくれるので、不思議と話を作ってしまう。もっと話を聞いて欲しいものと考えると、とどんどんエスカレートしてきて、話を誇張したりしてしまう。でも、ある部分が誇張されてしまうと、次に訴えようとする部分が完全にぶれてしまって。もう、しどろもどろになってしまうものです。
 だから、今ここで話していることは、誰々さんが言ったことですよと、必ず誰の証言に基づく話であるか、その根拠を強調して説明するようにしています。
 戦争を経験していない世代は、アウシュビッツの歴史から距離があるからこそ、「じゃあこの歴史をどう理解して、どう将来につなげていこうか」という議論をすることができると思います。直接被害を受けて痛みを受けた人は、あまりにも傷が深すぎてそこまで話を発展できないこともあるのです。』

重たい内容になってしまいましたが最後までお読み下さりありがとうございました。

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シンドラーの執務室(シンドラー工場跡 現シンドラー博物館 ポーランド・クラクフ市)

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