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#88 「立花宗茂」ご存じですか?

・戦国時代不敗神話を誇った男(めちゃくちゃ強い)
・損得にとらわれない戦を貫いた男(ブレない)
・関ヶ原の西軍大名の中で唯一旧領を復帰できた戦国大名

 
 戦国武将と言うと、武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康・・・などがメジャーな人物で誰もが思い浮かぶ存在です。みな有名な武将で、家来からは「軍神」のようにあがめられていましたが、彼らも実際は生身の人間でしたので、戦さに負けることはありました。常勝と言われた織田軍でさえ、勝率は七割ほどだと言われています。
 けれども戦国武将の中で、奇跡とも言える不敗神話を誇った人物がいました。それが筑後(ちくご・現在の福岡県)で活躍した立花宗茂(たちばなむねしげ)です。
 宗茂はただ戦さに負けなかっただけではありません。少ない人数でその何倍もの敵を倒してしまうので、「立花家三千の兵は他家の一万に匹敵する」と言われていました。今回は全国的にはあまり知られていないこの立花宗茂について調べてみたので紹介します。

立花宗茂

 「正義を貫く」のか、「損得で動く」のか。人生の中で迷った時、あなたならどちらを自分の行動の指針にしますか?
 宗茂は自分の領土欲を満たすために好きこのんで戦さをしたのではなく、戦さをする時には、明確な理由を持っていました。自分の領地を守るためであったり、主家である大友氏を守るためであったり、窮地に陥った味方を助けるためであったり・・・。宗茂は常に「義」のために戦ったのです。
 秀吉による朝鮮出兵の時、味方の窮地に際して少数の兵で明(中国)の大軍に立ち向かい、身の危険も顧みずに小西行長や加藤清正らのピンチを救っています。しかも、「行長のためでなく、行長が捕虜になれば日本の恥になるから、助け出すのだ」と言って助けた相手に恩義を着せないところがかっこいいのです。
 その後、朝鮮出兵で勇名が全国にとどろいた宗茂に対して、関ヶ原の戦いの折には、家康が東軍への協力を求めてきました。家康は東軍勝利の暁には、法外な恩賞を約束すると持ちかけてきたのです。立花家の家来たちも、東軍が勝つと見越して、主君宗茂に家康に味方することを勧めました。けれども、さすが「義の人」宗茂です。多くの戦国武将が東西どちらにつくのが得策かを考え「利」で動こうとする中、彼の言動はあくまでも明快です。「秀吉公の恩義を忘れて東軍につくのなら、命を絶った方がよい。勝敗にはこだわらず。」と家康の誘いをきっぱり断っています。
 もともと立花家は戦国大名の大友氏の家臣でした。その家臣にすぎなかった宗茂の器量を誰よりも認め、柳川十三万石の大名に抜擢してくれたのが、他でもない太閤秀吉だったのです。宗茂は関ヶ原の戦いの際、近くの東軍側の大津城を攻めて、見事に陥落させています。ところが、大津城主の京極高次(きょうごくたかつぐ)が降伏し、宗茂が城の引き渡しに立ち会っていたその日に、皮肉にも西軍の本体が関ヶ原でたった半日で敗れてしまったのです。
 歴史にもしはありませんが、あえてもし大津城の引き渡しが一日早く行われ、立花軍が関ヶ原に参戦していたら、「他家の一万に匹敵する」と言われた立花三千の兵が関ヶ原で縦横無尽に活躍し、小早川の裏切りがあったとしても、戦の成り行きはかなり変わっていたかもしれません。
 「西軍敗れる」の知らせを聞いた宗茂は、すぐに大坂に退いています。大坂城の豊臣秀頼のもとに、西軍の総大将・毛利輝元がいたからです。「関ヶ原で敗れたとはいえ、築城の天才秀吉公が作った天下に比類なき大坂城に拠って戦さをすれば、西軍は必ず勝てる」と、徹底抗戦を主張しました。しかし、総大将の輝元は宗成の意見を聞き入れず、家康に恭順の意を表したので、しかたなく九州へ帰ることにしました。
 瀬戸内海を船で航行している時に、思いがけない人物と宗茂は出会っています。関ヶ原に西軍として布陣するも一発の弾も撃たずに、敗戦決定後、東軍の中央を突破する壮絶な退却戦の末、薩摩(鹿児島)に戻る途中の島津義弘に出会ったのです。
 宗茂の実父・髙橋紹運(たかはしじょううん)は、島津氏との戦いで主君大友に忠誠を誓い、最後まで戦い通し討ち死にをしていました。ですから島津は父の仇です。しかも、島津はこの時東軍の陣を中央突破して退却してきたので、兵のほとんどを失っていました。それに対し、立花軍は大津城の戦いで勝利し意気盛んでした。家来たちが宗茂に耳打ちしました。「殿、今こそ父君の仇を討つ絶好の機会かと存じまする。」ところが、ここでも宗茂は並の男ではありませんでした。「馬鹿を申すな。敗軍を討つのは武家の誉れにあらず。それに義弘殿は同じ西軍、味方ではないか。」そういうと、むしろ手負いの島津軍の護衛を自ら申し出たのでした。島津義弘は宗成の厚意をありがたく受け、ともに親交を深めて九州へ帰ったのでした。
 九州の柳川に戻った後、家康から命令を受けた加藤清正・鍋島直茂(なべしまなおしげ)・黒田如水(くろだじょすい・黒田官兵衛)ら九州に領地を持つ東軍諸将から攻められました。圧倒的多数を誇る東軍を前に宗茂はどうしたのでしょうか。
 これまで、どんなに多数の敵に対しても決してひるむことなく少数の兵で何度も勝利してきた立花軍でしたが、天下の趨勢が決した今、これ以上戦いを続けても、家臣や領民から犠牲が出るばかりです。そこに戦う「義」はありません。むしろここはグッとこらえて降伏することが家臣や領民に対する「義」を果たすことになると考え、これまで奇跡の不敗神話を持つ立花宗茂もついに東軍の前に降伏しました。
 家康の戦後処理はとても厳しく、立花家は取り潰され、宗茂は浪人となりました。覚悟していたこととはいえ、家臣たちに苦労をかけ、自身も心から愛した柳川の地を離れることは、宗茂にとってさぞかしつらいことだったと思います。

 少数の家臣とともに流浪の日々を過ごす宗茂でした。けれども、武勇に優れ「立花の義」を貫いた宗茂を、家康は放っておきませんでした。一六〇四年に家康から御書院番頭(ごしょいんばんがしら)を命じられ、関ヶ原から四年、ようやく宗茂の復権がかないました。御書院番とは将軍直属の親衛隊ですから、御書院番頭は、いうなれば親衛隊長です。
 約二年に及ぶこの職務で、家康、二代将軍秀忠の絶大な信頼を得た宗茂は、一六〇六年ついに念願の大名に復帰するのです。わずか一万石でしたが、大名に復帰できた宗茂の心は喜びに満ちあふれていたと思います。
 その後、関ヶ原の戦いから二〇年の時を経て、宗茂はついに旧領の柳川藩主に返り咲いたのです。西軍に味方し、領地を没収された大名の中で旧領に復帰できたのは、歴史上宗茂ただ一人でした
 西軍諸将の中で、なぜ宗茂ただ一人だけが一度取り潰され領地を没収されたにもかかわらず、旧領に大名としてかえり咲くことができたのでしょうか。なぜ徳川家は宗茂を放っておかなかったのでしょうか。きっとそれは、自分の心に耳を傾け、いつも自分が胸を張って生きられる道を選択する生き方してきた宗茂を周りが認めざるを得なかったからではないでしょうか。ブレない生き方、義に徹して生きることの素晴らしさを宗茂が時を越えて私たちの心に訴えてきます。

父親・紹運(じょううん)もただ者ではなかった

 宗茂を調べたついでに、その父・高橋紹運(じょううん)についても調べてみました。

高橋紹運

 紹運が若かりし頃、同じ大友氏に仕える侍大将の娘を紹運の嫁にもらう約束をしていました。彼女の温和な性格に紹運も心ひかれていましたが、戦さが起こったので、婚礼が延び延びになっていました。戦乱が一段落し、紹運の父は正式に結婚を申し込むと、彼女の実家はこの縁談を断ってきたのです。戦の間に何があったのでしょう。 話を聞けば、紹運が父と共に出陣中に、彼女が天然痘にかかり、顔が見苦しくなったので嫁にはやれぬと言うことでした。これを聞いた若き紹運は、知らせに来た彼女の兄にかっこいいことを言っています。「私が妹御を妻に望んでいるのは、彼女の優しさであって、決して姿形ではありません。今不幸にして彼女の顔が変わってしまったとしても、その心は少しも変わっていないと信じています。」こうして結ばれた二人は、お互いを心から敬愛し慈しんだと言われています。そして生まれた男の子が後の立花宗茂だったのです。

 紹運には、大友家の家臣として尊敬してやまない立花道雪という盟友がいました。宗茂を娘の婿養子にと何度も道雪から紹運に申し入れがありました。その都度丁重に断っていましたが、ついに断り切れなくなり、養子に出すことを承諾しました。

 宗茂の出立の日、紹運は最愛の息子に尋ねています。「立花と高橋の間に戦が起こった場合、なんとする?」時は戦国です。昨日までの味方が今日の敵になることは十分考えられることです。宗茂の答は、「高橋家に味方する。」でした。普通の父親なら、息子のこの答えに満足するでしょうが、紹運は次のように息子・宗茂を諭したと言われています。「今日より道雪殿がおまえの父である。この戦乱の世、いつ道雪殿と敵味方になって戦うやもしれぬ。その時おまえは、立花家の先陣にたち、このわしを討ち取れ。」最愛の息子に対して、紹運はさらに烈しい言葉をぶつけました。「道雪殿は卑怯未練なことが大嫌いなお人である。不覚にもおまえが道雪殿から離別された時は二度とこの城に帰ってきてはならない。その時は、この剣で自害せよ。」幸い、立花家と高橋家が敵味方に分かれることはありませんでしたが、この時与えられた剣を実父の形見として、宗茂は生涯手放さなかったそうです。
 宗茂が養子に入って四年後、養父道雪は亡くなり、両家にとって主家である大友氏は、九州各地で苦戦を強いられていました。大友氏はじりじりと南から進撃する島津氏に圧迫され始めていました。主君・大友宗麟(おおともそうりん)は秀吉に救援を求めましたが、島津は秀吉軍の到着前に大友を滅ぼし九州制圧を目指して北上してきました。ほどなくして、紹運がわずか七百の兵で守る岩屋城へ島津五万の大軍が押し寄せてきました。数の上では圧倒的有利に立つ島津軍でしたが、二昼夜にわたって攻めても城はびくともしません。戦いはついに十日を越えましたが、紹運の指揮の下、城兵は疲労をものともせず、驚くべき精神力で戦います。島津は死者が三千人を超えた時、紹運のもとへ使者を送っています。兵力がこれほどまでにかけ離れている以上、どれほど城方が善戦しても勝機は万に一つありません。島津は城方に有利な条件で和睦を勧めてきました。

島津軍北上図

 ところが、紹運はこの申し出をきっぱり断っています。「主家が隆盛の時は忠勤に励み、功名を競う者は多いが、主家が衰えた時にこそ一命をかけて忠節を尽くすのが真の武士である。あなた方も島津家存亡の時になって、主家を捨てて命を惜しむのか。」これを聞いて、城を取り囲む島津軍の中から、本来武士のあるべき姿を明示して一歩も退かない紹運の態度に感嘆の声が上がったと言われています。しかし、戦いは非情なものです。翌朝から寄せ手の猛攻がまた始まりました。ついに本丸まで攻め込まれ、残りの城兵が五十人になったところで、これまで奮闘した五十人の家来にあつく礼を言った後、紹運は潔く自害して果てたと言われています。

 一方、となりの立花城を守っていたのは、紹運の息子・宗茂でした。島津軍が紹運の岩屋城を落とした後、次ぎに向かうのは立花城でした。ところが、実父の紹運がたった七百名で五万の島津軍を十四日も釘付けにしたのです。島津軍は岩屋城の戦いに勝つには勝ちましたが、四千名を越える死者を出し、体力も精神も既に消耗しきっていました。しかし、圧倒的戦力を誇る島津軍が、宗茂の守る立花城へいよいよ迫ってきました。まさにその時、豊臣秀吉の大軍が九州に迫っているという知らせがもたらされたのです。さしもの島津軍も立花城の攻撃は放棄せざるを得なくなり、南へ撤退していきました。

 父・紹運が命がけで岩屋城を十四日死守したことが、結果として手塩にかけて育てた息子・宗茂の命を救うことになったのです。

 昔の人は「美しい生き方」を貫くために命までかけていました。現代に生きる私たちは、命が取られることなんてまずないのに、何を悩んだり迷ったりしているのでしょう。調べながらそう思わずにはいられませんでした。紹運・宗茂を親子のつながりで考えてみると、この親ありてこの子かなと思いました。父親紹運の生き方がかっこよかったから、息子・宗茂も同じくかっこいい生き方が貫けたのだと思います。このような戦国武将がいたことを知らなかった自分が恥ずかしくなりました。メジャーでない歴史上の人物にもっと注目してみようと思いました。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。



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