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#3 幕末常識大転換

 「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった四杯で夜も眠れず」という狂歌、おそらく知らない人はいないのではないでしょうか。これは幕末に日本に来航したアメリカのペリー艦隊への幕府の対応、狼狽ぶりを揶揄した歌とされています。強気のペリーに、それに屈する弱腰の幕府、長年の鎖国で外交音痴、その結果不平等条約を結ばされた、そんな一連の出来事を象徴するような歌であると考えているのが、普通の日本人の認識だと思います。


  この「泰平の〜」という歌、最近までしばらく教科書に載っていませんでした。ペリー来航当時に詠まれたものであるか信憑性が疑われていたからです。ところが最近1853年に書かれた書簡の中からこの狂歌が見つかったので、ペリーが来航した時に詠まれた狂歌であることはほぼ間違いありません。当時の一般の人々の狼狽ぶりはそうだったのかもしれませんが、近年過去の文献の研究が進み、幕府のトップの人たちは冷静に事態を受け止め、ペリーとの交渉は日本側の見事な作戦勝ちであったことがわかってきました。


  ペリーと交渉した日本側の代表は林大学頭(はやしだいがくのかみ)という儒学者でした。この人物のペリーへの対応については、弱腰外交とは正反対の、冷静かつ毅然とした対応でペリー側の横暴な要求を見事に押し返しています。そもそもペリー艦隊が日本に来航することは当時唯一の友好国オランダ東インド会社からの報告で幕府は事前に知っていたのです。またペリーの来航に向けて、徹底した情報収集・分析が行われていました。当時の国際法も幕閣は正確に理解していたのです。まさにペリーの来航は「飛んで火にいる夏の虫」までとはいかなくても、用意周到した上に臨んだ交渉だったのです。(こうした幕末の対米外交に関する事実については、加藤祐三氏の『幕末外交と開国』に詳しく記載されています。)


  つまり、これまでの「泰平の世で軟弱になり、鎖国で世界情勢にも疎くなっていた幕府は、ペリーの黒船に驚き、ビビッてアメリカからの要求を飲んでまった」といった類の話・説明は、デタラメだということです。ただ後の世でそうしておかないと困る人たちがいて、幕府は無能で無為無策だったとしないと、自分たちの正当性が保てなかったのでそうしたのだと考えられています。

  ではなぜそのような嘘がまことしやかに教えられ、定着していってしまったのでしょうか?それは、江戸幕府に続く明治政府が自分たちの正当性を国民に示すために江戸幕府を否定する必要があったからだと今では考えられています。「諸外国との不平等条約は、その外交音痴で世界情勢に疎い幕府が、脅され騙されて結んでしまったもの」、とこれまで小中学校や高校では教えられてきました。確かに交易のために最初に締結したのは日米修好通商条約でしたが、その条約締結当時は日本(江戸幕府)もアメリカもお互い不平等なものとは全く認識していなかったのです。しかし、それを不平等なものとして解釈して運用してしまったのは後の明治政府だったのです。そこで都合が悪くなった明治政府がもうすでに滅亡している幕府に全責任をなすりつけたというのが事実なのかもしれません。
  その後はご承知のとおり、明治の世では江戸幕府の否定どころか江戸時代そのものを否定するまでに至り、その反対に「文明開化」の名の下に西欧化、西欧礼讃が推奨され、多くの歴史的建造物、価値の高い建造物は次々と取り壊されて西洋風の建物に建て替えられていったのみならず、江戸時代の価値観や哲学や思想まで、明治政府の都合の悪いものはすべて否定されていったのです。(しかし、平成になって様々な江戸時代の記録書・文献が見つかり、江戸時代が見直されてきていることが事実です。)

 ペリーと林大学頭との交渉の実際は以下のようだったのです。(古文書が見つかっています。)実際交渉が始まると、ペリーはいかにもアメリカンスタイルの恫喝的な態度で交渉をリードしようとしました。彼は「人命尊重が第一」と言いながら、祝砲として18発の空砲を放ち武力を誇示しましたが、林は何ら動じることもなく淡々と会議を続けたと言われます。米側から示された薪と水、食料などの給与、漂流民の救助は国の法に照らして問題がないので林は承諾しました。しかし、三つ目の交易については、国法で禁じられているからと林はきっぱり断っています。その後交渉はなかなか進まず何度も行われましたが、交易についてペリーは食い下がってきました。しかし、林が「あなたは人命第一と申された。交易と人命は直接関係がない。」と言うとペリーは反論できず交易についてはあきらめました。
 すると、ペリーは作戦を変え、薪水給与のため長崎以外の港の開港を求めてきました。しかし、これも一度目の来航時に他の港の開港要求がなかったことを理由に拒否しました。結局最終的に、下田と函館が開港されましたが、これらは来航したアメリカ船に薪水等を与えるための港であり、林の見事な交渉術で外国人の立ち入りを港から7里以内に制限したものでした。
そして結ばれた日米和親条約は、ペリーたちアメリカ側がイメージしていた「交易」とは、実際にほど遠い開国だったのです。(NHK BS歴史館より)

 私たちは漠然と「日本がペリーの武力に押されて開国した」などと認識してしまっていますが、林大学頭は武力に動じず、アメリカ特有の恫喝外交にも屈せず、アメリカ側の「交易」という目論見をみごとに崩し去ったのです。これは私の予想ですが、おそらく日本とはほど遠い、しかも建国したばかりのアメリカが、太平洋を渡って日本に上陸してまで戦争する能力はないと林以下幕閣は見越していたのかもしれません。

 少なくとも幕末日本は決して弱腰外交などではなかったのです。 
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