#62 小笠原を守ったサムライたち
1 現代における小笠原諸島の重要性
まず小笠原諸島について説明します。小笠原諸島は、東京から南へ約1000km離れた広大な海域に浮かぶ30ほどの島から成り立っています。明治13年以来東京都に属しています。この小笠原諸島で民間人の住んでいる島は父島と母島だけです。ともに千代田区の約2倍の大きさの島です。1年中暖かな亜熱帯気候で、透明な海と独自の生態系を持つ動植物に溢れています。「人類共通の貴重な財産」として2011年世界自然遺産に登録されました。
この小笠原諸島が日本の領土であることの大きな意味から説明したいと思います。小笠原諸島が保有する排他的経済水域(EEZ)は日本全体のEEZの31%を占めています。面積で言うと、約150万平方キロメートルになります。これだけで日本の国土面積の38万平方キロメートルをはるかにしのぐ広さです。
小笠原近海には豊富な漁業資源があるばかりでなく、その広大な海底に無数の熱水鉱床が存在しているといわれています。この周辺には無尽蔵とも言えるレアアースが眠っているのです。例えば小笠原諸島付近と沖縄西部沖を合わせると、約50兆円分のレアアースが発見されています。近年、南鳥島付近で大量に発見されたレアアースの泥は、我が国が必要としているレアアースの200年分以上の埋蔵量だというのですから驚きです。
さらに、日本の国土面積は世界第61番目ですが、日本の排他的経済水域(EEZ)の面積になるとなんと世界第6位になります。またEEZ内の海水堆積となると、1位アメリカ、2位オーストラリア、3位キリバスに続いて日本は世界第4位なのです。このことは、未来の日本にとってとても重要な意味を持っています。なぜなら、海水には金やウラン、コバルト、リチウムなどのレアアースが大量に含まれているからです。おそらくそう遠くない将来には、これらの貴重な資源を効率よく取り出す技術が完成することでしょう。だから日本は決して小さい国でもなく、資源のない国でもないと最近認識されるようになってきたのです。
この小笠原諸島が、現在日本の領土であるのは、今から180年前に異国人たちから体を張って命がけで守ったサムライたちがいたからなのです。その話をしたいと思います。少し長くなりますが是非最後までお読みください。
1853年ペリーが浦賀に4隻の軍艦を率いて当時の江戸幕府に開国を迫ってきたことは周知の事実です。このペリーの開国要求にすぐ返事ができなかった幕府は、翌年に返事をするとペリーに約束しました。しかし、ここで私は大きな疑問を持ちました。当時はまだ太平洋航路はできていませんでした。なぜなら当時の最新鋭の軍艦は蒸気船でしたので大量の水と薪を必要とします。アメリカの西海岸から太平洋を横断してきても、水と薪、食料をどこかで補給できなければ航海が続けられなかったのです。だから太平洋航路を開くにあたってアメリカは、途中で水と薪、食料を補給できるところが喉から手が出るほど欲しかったのです。この太平洋航路を開くためにペリーはアメリカから大西洋を横断して、アフリカ南端の喜望峰を経由してインド洋を横断してはるばる日本の浦賀にやってきたのです。(下:ペリー航海図)
上の図からわかるように、ペリ-は日本へ来るのに半年以上もかかっています。この同じ航路でもう一度アメリカに戻って再度浦賀に開国の返事をもらいに来たら、1年後では間に合わないはずです。
ペリーはアメリカに戻っていなかったのです。じゃあどこに行っていたのかというと「小笠原」だったのです。
なぜペリーは小笠原諸島に立ち寄ったのでしょうか。実はペリーが立ち寄る以前にイギリスやロシアからも多くの船が頻繁に小笠原に来航していたのです。しかも、驚いたことにその時に小笠原に住んでいたのは日本人ではなく、米英などの外国人だったのです。このような状況にあった小笠原がどうして我が国の領土になったのでしょうか。
2 小笠原貞頼の無人島発見伝説
小笠原諸島の存在が日本人に知られるようになったのは、1670年のことでした。四代将軍家綱の時代、紀州(和歌山)のミカン船が遭難して、「名も知れぬ無人島」に漂着しました。それが小笠原(母島)だったのです。「八丈島のはるか南で、暖かくて美しい無人島発見!」このニュースは瞬く間に広がりました。そこで、幕府は探検家の島谷市左衛門(しまやいちざえもん)に小笠原の調査を命じました。探検隊は下田から南下し、見事小笠原に到着します。島谷は島々の経度を測って地図を作成し、島に名前をつけました。そして父島に「此島大日本之内也」と刻んだ碑を立てて日本の領土の標としたのです。ところが幕府は小笠原の開拓を断念し、「無人島(むにんじま)」のままで放置することにしました。あまりにも本土から遠かったからです。
それから57年後八代将軍吉宗の時でした。小笠原貞任(さだとう)という浪人が、奉行所に「島は私の領地である」と渡航許可を願い出ました。その際に証拠として提出された「巽無人島記」によると、信州松本の小笠原貞頼が、豊臣秀吉の許可を得て探検したら、無人島を発見したとあるのです。さらに、家康がこの島の所有権を貞頼に認めたと書かれていました。貞任は「自分がこの貞頼の子孫だ」と主張したのでした。しかし、幕府の調査でこれが偽りであることが発覚し、貞任は投獄の後に追放されています。この一件は世間を騒がし、いつしか無人島は「小笠原島」と呼ばれるようになったのです。
この無人島の情報は長崎出島の医師ケンペルによって、日本人による「先占(所有者のない土地を他より先に占有すること)」としてヨーロッパに紹介されています。さらに兵学者林子平の著作「無人島之図」がフランス人レミューザやクラプロートによって紹介され、欧米人は小笠原を「無人」の発音から「ボニンアイランド」と呼ぶようになったそうです。そして、幕府の無関心とは対照的に、欧米人は強い関心を示すようになっていったのでした。
3 小笠原をめぐる欧米人の野心
欧米人が 当時なぜ小笠原に強い関心を持ったのでしょうか。19世紀になると、イギリスは太平洋にまで覇権を確立しようとしていました。またアメリカは西海岸までの開拓を終え、さらなるフロンティアとして太平洋に進出していたのです。太平洋を舞台に、この2つの大国が小笠原を舞台に激突しようとしていたのです。
当時、欧米諸国はさかんに捕鯨を行なっていました。産業の機械化が進み、機械用の油や夜間照明用のランプの油が大量に必要でした。それに当てられたのが、鯨の皮下脂肪から取った鯨油だったのです。乱獲によって大西洋の鯨を取り尽くしてしまい、漁場を太平洋に拡大したのでした。特に小笠原近海のマッコウクジラの大群がいる海域は「ジャパングラウンド」と呼ばれていました。そのため、小笠原は捕鯨船のための食料や水、蒔きの補給基地として注目が集まり、本格的な欧米人の来港が始まったのでした。中でも積極的だったのがイギリス人でした。
1923年イギリスの捕鯨船が小笠原諸島の母島に来航し、コッフィン島と命名します。1827年には英国海軍のブロッサム号が小笠原諸島を探検し、小笠原諸島を英国の領土とした宣言文を銅板に刻み、これを父島の樹木に打ち付けたのです。翌年ロシアの軍艦が来航していますが、この領有宣言を知って悔しがったといいます。その2年後、1830年、無人島だった小笠原に定住する人が現れました。それは日本人ではありませんでした。ハワイの英国領事チャールストンが「ボニンアイランズ開拓計画」を画策し、米英人ら5人とハワイ人20人からなる開拓団を送り込んだのです。彼らは島を開墾するとともに、米英露仏の捕鯨船相手に水や食料、家畜などを売って生計を立てていました。この時点で、小笠原は太平洋を狙うイギリスの野心に飲み込まれようとしていたのです。しかし、それにはアメリカが黙っていませんでした。
4 ペリーの小笠原植民地化計画
ここでやっとペリーが登場してくるわけです。1853年浦賀に来る前にペリーは小笠原の父島に寄港しています。その時の島の欧米人は50人ほどでした。ペリーは島をくまなく調査した上で、小笠原の領有を宣言しました。そして、島のリーダーであるアメリカ人のナサニエル・セボレーと会談し、50ヘクタールの土地を購入して石炭置き場にしました。さらに、セボレーを「ボニンアイランズ長官」として米国海軍に編入し、島民たちに自治政府を作らせました。この時小笠原は事実上、ペリーによってアメリカの軍政下におかれてしまったのでした。
ペリーは帰国後に書いた「小笠原島覚書」の中で、「小笠原群島は太平洋の要路に位置するので、ここに捕鯨船の補給基地及び「米~中航路」の蒸気船のために石炭の貯蔵所を設け、自由に利用するために植民地にすべきだ」と説いています。「米~中航路」とは「サンフランシスコ~ハワイ~上海」を結ぶ太平洋航路で、このルートなら中国に到達するのに20日足らずでした。「大西洋~インド」ルートでは、とても遠回りになるのでイギリスに対して圧倒的に優位に立つことができるのです。
5 老中・安藤信正の決断
ペリーの来航で開国に踏み切った幕府は、1858年に締結した日米修好通商条約の批准書を交換するためにアメリカに使節団を派遣しています。この時、ペリーが帰国後に書いた「日本遠征記」が一行に手渡されました。これを読んだ幕府の使節団は驚愕します。なぜなら、「日本が知らないうちに米英で小笠原の領有を争っていること」「ペリーが日本開国のために軍事基地にしていたこと」「すでに父島に欧米人が定住していること」などの衝撃の事実が記載されていたからです。ここにいたって、幕府は小笠原の地政学的重要性をはっきり自覚したのでした。この報告を受けて小笠原が国防の第一線と刮目した老中・安藤信正(あんどうのぶまさ)は即座に決断しました。
「このままでは日本を守ることあたわず!無人島を確保せよ!」
欧米が支配している小笠原を奪還するという難題を任されたのが外国奉行・水野忠徳(みずのただのり)でした。下田奉行所や長崎奉行所を歴任した外交のエキスパートです。しかし、水野の任務は簡単なものと思えませんでした。なぜなら、小笠原はすでに1830年以来、欧米系住民が生活しているという既成事実に加えて米英両国が領有を宣言している、といった状況にあったからです。しかし、水野は幕閣たちにきっぱり言いました。「日本の由緒のある島々が外国の帰属になることは断じて許されない!」サムライの気概ここにありです。こうして、1861年12月水野はじめ約百名が軍艦咸臨丸に乗り、小笠原に向かいました。
一方、老中安藤は直ちに各国公使に対して、小笠原の開拓を通告しました。「我が国の帰属・小笠原は、これまで渡航を中断していたが、この度開拓を始めることに決した。ところでことの真実は不明だが、近年になって貴国の国民が移住していると伝え聞いているので、念のため申し入れておく」
この通告文に対して、米国公使ハリスは島民の既得権を要求し、英国公使オールコックは「日本が島の発見者であってもその後の管理を怠ったのだから、権利は消滅している」と領有権を主張してきたのでした。
2週間後、父島に着いた咸臨丸は7発の号砲をとどろかせました。正面に迫る二見港を見つめていた一行は、目をむいて驚きました。なぜなら、号砲にこたえる形で、海岸に星条旗が掲げられたからです。上陸した水野は早速、港近くの旭山の頂上に日の丸を掲げさせました。ここが日本の領土であることを示したのです。すぐに島民を集め話し合いがもたれました。水野は住民の代表セボレーに168年前に日本が小笠原を発見・調査した事実を説明し、次の3点を提示しました。
1 小笠原を日本領とする。
2 欧米人の生活と財産を保障し、既得権を尊重する。
3 今後、日本人移民の開拓に協力せよ。
そして水野はこう付け加えました。「もし、日本の統治が不服なら、島を退去してもらうことになる。しかし、その場合は補償金として土地と住居を買い上げよう。」
すると、欧米人は「日本の統治を受け入れる」と答えました。どうしてでしょうか。実際のところ、これまで島民は、海賊や無法な船乗りたちによる盗みや拉致などの犯罪行為に脅かされていたのでした。米英政府にとって小笠原はあまりのも遠かったので、保護が及ばず、放置してきたのが実情だったのです。これに対して、水野は島民の保護を明確に打ち出しており、しかも交渉の姿勢がとてもフェアーだったので、全島民が日本への帰属を歓迎したのでした。会談の終了後、持参した土産を全島民に配り、大喜びされました。
水野たちの小笠原滞在は4ヶ月にも及びました。その間、幕臣であり数学者の小田友五郎(おのともごろう)は島々を徹底調査しています。小野は日本が南方から侵攻される場合、小笠原が支援基地になることを確信していました。日本を守るためには正確な地図が必要です。そこで、経緯度、海岸線、水深などのデータを取り、詳細な「小笠原群島図」を完成させました。水野も精力的に島々を探査し、日本領の由来を刻んだ石碑を建てました。そして、和文と英文で作成した島の規則を島民に公布し、実効支配を着実に進めていきました。
江戸に戻った水野は、各国公使に改めて「小笠原の領有」を通告しました。予想通り欧米各国から異論が噴出しました。しかし、水野は200年前の島谷市左衛門による調査探検の事実、小笠原貞任の無人島発見伝説など、証拠を挙げて堂々と反駁しました。そして最後の切り札は、小野友五郎が作成した実測地図の存在でした。実は各国はまだ小笠原の近代的実測図を持っていなかったのです。地図がなければ支配しているとはみなされませんでした。これらが日本の先占を証明する根拠となって、小笠原が日本領であることを確定する決め手になりました。ここに小笠原の日本の主権が確保されたのです。
安藤、水野をはじめとするサムライたちの強固な意志と実行力が欧米支配下の小笠原を奪還するという難事業を成功させたのです。
6 小笠原の再回収
翌1862年、いよいよ小笠原の実質的な統治が始まりました。幕府は八丈島の移民希望者38名を父島に送り、農業と製塩をはじめさせました。また中浜万次郎(ジョン万次郎)をリーダーにして小笠原近海での捕鯨を全国に奨励しました。しかし、翌年小笠原の開発は中止になってしまいます。撤退の理由は、前年に起きた生麦事件(薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件)の処理がこじれたからでした。イギリスは幕府に圧力をかけるため、横浜港に艦隊を集結させました。これにより小笠原の島民が人質の取られる恐れが出てきたのです。さらに小笠原開発に尽力した老中・安藤は「坂下門外の変」で斬られてすでに失脚。水野も政争に巻き込まれて奉行職を辞任していました。
幕府はやむなく全移民の引き上げを決定。小笠原は再び欧米系の移民だけの島に戻ってしまったのでした。その後、幕末の動乱から明治維新を迎え、近代化の推進、さらに「士族の反乱」や「台湾出兵」、ロシアと「千島樺太交換条約」の締結など、日本は解決すべき課題が山積し、絶海の孤島・小笠原諸島が放置され続けていました。すると、そんな日本の様子を見て、突然イギリス公使パークスが小笠原の所属を執拗に質してきたのです。「小笠原島はどうなったのか?貴国は依然としてうち捨てているようだが」日本に小笠原領有の意志があるのかどうかを問うてきたのです。ここにきて、明治政府はあらためて日本の領有を認めさせる外交措置が必要になったのでした。
1875年、政府は小笠原の再回収と開拓を決定し、明治丸を派遣することをパークスに通告しました。時の外務卿(外務大臣)は、幕臣時代から外交経験を積んできた寺島宗則でした。パークスは「小笠原は本土に近いから日本領だというのは道理が通らないそれなら、琉球は志那(中国)に近いから志那の領土になる」と寺島に詰め寄りました。これに対して寺島は「我が国はずっと以前から領有権を主張している」と距離の問題ではないことを明言しました。すると、「日本だけでなく、英、米、露も派遣している」とパークスは反論。寺島「それは政府から派遣を命じたのか」パークス「そうだ」
寺島「最後に官吏を派遣したのは日本である。近海の島を無主のまま捨て置くのは日本のために宜しからず!それゆえ、この度の決定がある」緊迫のやり取りが続きましたが、日本の外交の威信にかけて寺島は一歩も退きません。ここで寺島は決定的な資料を突きつけました。それは、幕末の安藤と水野による開拓の事実でした。これはまさしく日本の主権を示す重要な証拠でした。追い詰められたパークスは日本の領有を既成事実として承認せざるを得ませんでした。
こうして明治政府は、欧米系島民に統治の再開を告げ、島民も再び日本の保護を受け入れました。以後、島の発展に尽くす明治政府の真摯な姿勢を見た欧米系島民は、全員が日本へ帰化したのです。これをもって小笠原諸島の日本帰属は確かなものになりました。
7 3度目の小笠原奪還
その後、日本人の移住と開拓が本格的に始まり、小笠原諸島は製塩や捕鯨、コーヒー、ゴム、さとうきび、パイナップルなど南国の農業が展開されました。71人だった島の人口は1944年には約8000人近くまで増加しました。
1941年太平洋戦争が勃発すると、小笠原は本土防衛の前線基地となりました。度々米軍の爆撃にさらされるようになって、ほとんどの島民が日本へ引き揚げざるを得なくなりました。そして日本の敗戦とともに小笠原は米軍が直接占領する時代を迎えます。なんと三度、外国人の支配下に置かれることになったのです。
1946年占領軍は欧米系の島民135人だけの帰島を許可しました。故郷の島々に帰った島民たちは愕然としました。占領軍によって港湾施設や発電所をはじめ、建物の大半が破壊され、井戸水され枯れていたからです。島民たちは一から復興に取り組むしかありませんでした。一方本土に残された大多数の日本人島民も帰島を強く希望しました。「小笠原帰郷促進連盟」を結成し、占領軍に働きかけましたが、許可されないまま時が過ぎていきました。
7年にわたる占領期を終え、ついに1952年、日本は独立を回復します。これで島に帰れると期待しましたが、あろうことか小笠原は沖縄とともに米軍の直接統治下に置かれ続けることが決定していました。しかも、小笠原は沖縄と違って日本人が一人も居住していないのです。元島民たちは「このままアメリカの領土となってしまうのではないか」と心配でなりませんでした。
島民たちの不安をくみ取り、日本政府はアメリカと粘り強く交渉を続けました。そして、1968年6月26日ようやく小笠原の日本復帰が実現しました。念願叶った島民たちは続々と島に帰って行きました。終戦から実に23年の年月が経っていました。
一度失った領土はそう簡単には取り戻せません。それは現在の北方領土や竹島の現状がよく物語っています。それにしても、幕末のサムライたちが小笠原諸島の地政学的重要性を見抜き、欧米に先んじて実測地図を作成した先見の明には驚かされます。また確固たる領土意識を持ち、国際基準に合致した先占の証拠を周到に用意して外交交渉に臨み、小笠原の領有を認めさせたサムライたちに学ぶことは多くあります。また、冒頭に記したように排他的経済水域の重要性を考えたときに、もし小笠原諸島が外国の領土になっていたとしたら、日本の国益の損失は計り知れないほど大きかったと思います。三度の危機の乗り越えて私たちの領土を守ってくれた先人の苦労に感謝しなければいけないと思います。
日本の舵取りをする政治家や官僚がしっかりとした知識を持って、それに基づいた的確な判断を下し、迅速な行動を取ることがいかに大切であるか痛感します。そして何よりも、国のリーダーたるものは、日本と日本人を愛し、国益を守るためには断固として戦う気概と覚悟が必要なのではないでしょうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
参考文献「東洋文庫 幕末外交史」(平凡社)「小野友二郎の生涯」(中公新書)「幕末の小笠原」(中公新書)「国境の島を発見した日本人の物語」(祥伝社)「日本開国」(草思社)「感動の日本史」(致知出版社)
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