「ユルく」という言葉が苦手だった理由
私は、10代の時から、「ユルく」という言葉が苦手でした。
何といっても、小学校の卒業アルバムに書いた好きな言葉は、「一生懸命」。何事も全力でやらないと気が済まない性だったので、常にリーダーとか、〇〇委員とかをやっているようなタイプでした。
掃除しない男子を「ちょっと男子!」って怒ったりするような、あの感じですね。
そして、このスタンスは大人になってからも全く変わらず。
仕事は手を抜かず、真面目に一生懸命に。そして、夜遅くまでの残業も厭わず、働いていました。
「三つ子の魂100まで」とはよく言ったものです。。。
でも、今になって思えば、「真面目で一生懸命である」ということが、無意識で自分のアイデンティティだと思っていた節があったなと思います。
もう少しハッキリ言うと、「真面目で一生懸命である」と、周りの人から評価されている自分であらねばならないと思っていました。
なぜ、そんなふうに思っていたかというと、「自分に自信がなかったから」です。
私は3人姉妹の真ん中で、明るく活発でオシャレ好きな姉と妹に挟まれて育ちました。
そんな姉や妹に比べ、本が好きで内向的だった私。
物心着いた頃から劣等感を感じ、「真面目で良い子である」ということが唯一の自分を認められる手段になっていました。
裏を返すと、つまり「頑張っていない私」は存在価値なし、と思っていたということ。
「ユルく」なんていう自分を想像すると、何だか世界から見放されてしまうような、心許なさを感じてしまっていました。
(というか、「ユルく」なんていう自分の姿を想像したこともなかったけど・・・)
そうやって生きてきた結果、「真面目に一生懸命に」で常にあり続けるなて、無理な話だな、と今は悟っています。
気力や体力が十分にあった若い頃はよくても、アラサーにもなってくると限界がやってくる。
そして、背負った重い荷物がどんどん積み重なって、潰れてしまいそうになる。
私は、アラサー手前で「もうこれ以上頑張りたくない」と言う心の声を、はっきり聞いてしまいました。
そこからは、「ユルく」という時間を意識的に作るようにしています。
(意識的にユルく、って、それは本当にユルいのか?という疑問はありますが。笑)
そもそも、人間は「生きているだけで十分」なんですよ。
そして、人間の最大の喜びは、「私は生きているだけでいいんだ」と実感できることだと思います。
一生懸命というのも価値のあることですが、それは「生きているだけでいい」というベースがあってこそ、健康的に力を発揮するんです。
基本ユルいけど、時々、一生懸命。
それが一番、最強じゃないでしょうか。
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