見出し画像

【withばあちゃん】#1 ばあちゃんとの日々を書きたくなった。

開幕数ページで、泣きそうになりました。

勢いで、行きつけの飲み屋でiPad開いて、この記事を書いています。
幡野さんの本は『幡野広志の、なんで僕に聞くんだろう』を先に読んでいて。kindleセールに釣られて。仕事でも使えるのではないかと思って。

もちろん、『なんで僕に〜』において、さまざまな質問に答える形の文章もグッとくるものがありました。
しかし、ふと思い立って「本当は紙版で読みたいけど、kindle版あるなら買って読んでしまうべ。」と、今日ダウンロードして、読み始めて、わずか数ページで、というか写真とキャプションだけで、滂沱ぶちかます自分がいました。

そして、何者でもないワタシが、何でもないばあちゃんとの日々を、何となーく書き残したくなったのです。

家族にも了承とってないし(つか家族、ワタシのネット関連何も知らんし)
当局の訴追を受けた場合は予告なくアカウント消滅させる覚悟ですが、自分のために、何かのために、今はもう思い出にしかならないばあちゃんとの記憶を、記録したいと思います。

ばあちゃんとワタシ。

私は紛うことなく「ばあちゃん子」です。
両親共働き、兄弟なしのひとりっ子という家庭環境で育ちました。
そんな私の家庭環境を憂えたのか、母方の祖母(ばあちゃん)宅へ、夏休みの度ごと、ほぼ丸一か月。夏休みの間中、合宿よろしく滞在していました。

ばあちゃん曰く、「麗子(ワタシ仮名)は兄弟がいないから。競争を知らない。従兄たちと一緒に過ごさせて、兄弟の競争を経験させたい。」という思いがあっての提案だったようです。
当時働き盛りの父母にとっては「願ったり叶ったり」という感じだったでしょう。私も、片道1時間30分以上のバス一人旅を、小学校低学年から経験することとなりました。
「ひとり」であることは昔から慣れっこではありますが、子ども時代を思い出すと、やはり、「小学生がたった一人でバスの旅」というのは、どこかしら誇らしい気持ちがあったように思い返します。

周りをオトナに囲まれて。おかげさまで幸か不幸か、私の社会性は小学校低学年で培われたと言っても過言ではありませんでした。
要は、「こまっしゃくれたガキンチョ」でした。

晩年のばあちゃん。

2020年現在、私は日本から離れた土地で生活しています。
海外赴任の希望を出した時点で「親の死に目には会えない」という覚悟を持っていました。ましてやばあちゃんをや。
我が家は父方、母方ともに「長命家系」だと自負していますので、大抵のことは大丈夫でしょう、と思っていました。それでもさすがに、ばあちゃんは1930年生まれ(世界恐慌の年なので覚えやすいです)ばあちゃんの死に目には、マジで会えないかもな。と、頭の片隅で、半分はそう思っていました。

「明日起きたら死んでてくれたら」

「明日起きたら、コロッと死んでくれてたらいいのに」
ばあちゃんは折に触れ、こう言っていました。私からすれば「起きたら死んでる」って何の矛盾やねん。とツッコミどころ満載の「ばあちゃん語録」でしたが、ばあちゃんはとにかく「周りに迷惑をかけずに死にたい」とずっと言っていました。グループホーム、老人ホームに入って(自宅での介護でなく、外で?)自然死したい。という気持ちだったようです。

完食ばあちゃん。

しかし、昭和初期生まれのばあちゃん。家訓のひとつは「お残しは許しまへんで」でした。出された食事はとにかく完食。自宅介護はもとより、デイサービスやグループホームでお世話になるようになっても、「完食ばあちゃん」は揺るぎないものでした。何なら他人のおやつにすら手を出す。「食べることは生きること」を身をもって示してくれるばあちゃんでした。

食べられなくなったらあっという間。

そんな「健食ばあちゃん」にも、老衰がやってきました。
自宅介護が困難になり始め、グループホームに何とか入ることができ、それから約2年。2020年5月、母から「コロナウイルスの影響で、3月以来面会も自粛だったんだけど、ホームから『寝たきりになった』と連絡がきた。」との連絡が来ました。5月に面会に行った母からは「だいぶ小さくなった」「あなたの帰国まではもたないかもしれない」とのことでした。
そして、2020年6月13日、享年90歳でばあちゃんは亡くなりました。
私の誕生日が6月21日なので、「ばあちゃんがもうちょっと頑張ってくれて、命日が6月21日になれば、本当に私は『ばあちゃん子』になれる。」
そんなことを、日本から遠く離れた場所でひとり、考えていました。

会えない後悔。

覚悟はしていても、実際に「死に目に会えない」となると、寂しさと無念さだけが残ります。通夜、葬儀は万事抜かりなく、従兄と母が取り計らってくれました。こちらへ情報を伝えようと、写真も送ってくれました。
無事に送り出すことができてよかった。何もかも任せて申し訳なかった。そう思う以上に「私もその場にいたかった」という気持ちは、今も拭えません。
介護ベッドの上で小さくなったばあちゃん。棺の中で眠るばあちゃん。最後に見たばあちゃんの写真は、文字通り「魂の抜けた」ばあちゃんでした。
状況が許せば、葬儀のための一時帰国も可能でした。ですが、今の状況では、帰国したところで14日間の隔離が余儀なくされます。そんな状況で葬儀に出ることもできず、こちらでの職務にも支障を来たします。残念だけど帰れない。諸々よろしく頼むと、母に連絡を入れました。

ばあちゃんは今。

ばあちゃんが亡くなって2か月後には初盆で。
生前から忙しい人でしたが、ばあちゃん没後2か月での再登板(現世)ですか? と苦笑の孫でした。
死後の世界だとか、現世との繋がりだとか、そこまでスピったことは考えていません。それでも、日本から、家族から遠く離れて過ごす生活で、何かしら祖母の面影を感じる場面に出くわすと「ばあちゃん、海渡って来たん?」と思わずにはいられない。そんなときがあります。思い過ごしだったり、残された者の感傷だったりするのでしょう。
それでも、たまにばあちゃんは、孫らのことを心配して、顔出しに来てくれてるのかなと、そう思います。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?