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敢えて自ら「社畜」と名乗るわけ

私はこのnoteでもTwitterでも「フリーな社畜」と名乗っています。
もちろん、特にワークライフバランスが重視されている今の時代に「社畜」という言葉が主に悪いイメージで使われているのは百も承知です。
念のためWikipediaで検索してみましたが、
『主に日本で、社員として勤めている会社に飼い慣らされ、自分の意思と良心を放棄しサービス残業や転勤も厭わない奴隷(家畜)と化した賃金労働者の状態を揶揄したものである。「会社+家畜」から来た造語かつ俗語で、「会社人間」や「企業戦士」などよりも、外部から馬鹿にされる意味合いを持つ。』
とありました。さんざんな言われようですね。これだとさすがに自分でも嫌になります。

私自身も、上のWikiからの引用の中で太字にした部分については、こうはありたくないと強く思います。
そして、その嫌な部分を改めて見返すと、自分の意識の持ちようでは改善できるのではと思います。
①自分の意思と良心を放棄し ⇒会社から「与えられる」仕事を受動的にしようとするのがいけないのであって、自ら目標やありたい姿を持って能動的に動けばいいわけですよね。
②サービス残業や転勤も厭わない奴隷(家畜)と化した賃金労働者 ⇒これは性格や環境にもよると思いますが、私は自分でやり遂げようと思った仕事が終わらなければ(程度問題ではありますが)サービス残業もしようと思いますし、もし本当に自分がやりたい仕事が今の場所にないのであれば、転勤も厭わないです。

私が「⇒」以下に書いたような意識で仕事をするのは、Wikiの言葉で言えば「会社人間」や「企業戦士」の方に属するのかも知れませんが、そこまで肩ひじ張らなくても自分が勤めている会社といい関係を築きながら自分の成長も目指していく、ということもできるのではないか、つまり家畜であってももう少しいい過ごし方ができるのではないかと私自身が思っているため、上の文章で「自分の意識の持ちようでは改善できる」と書いた部分を「フリーな」という形容詞に込めて「フリーな社畜」と名乗ったわけです。
ほぼ身動きも取れない小屋の中で自由を奪われて飼われているブロイラーは嫌ですが、広々とした放牧地でのんびりと飼われながら乳を提供する乳牛なら、家畜であってもそれなりに悪くはないですよね。(実際の動物は自らは環境を選べませんが)
そもそも「飼われている」よりも野生で生きる動物であるべき、みたいな話もあるかも知れませんが、「野生=自由だが命の保証はない」みたいに考えると、人間が社会を作って生活するというのは動物で言えば「飼われている」状態みたいなものかなあ、というような思いもあります。

また、さらに追加して言えば、私は仕事そのもの、会社そのものは嫌いではありません。もちろん月曜よりは土日の方が好きですし、日曜の夜はそれなりに嫌な気分にもなります。仕事で失敗して嫌な思いをしたこともありますし、出社したくなくて休職を本気で検討するような状態になったこともあります。
ただ、「自分の仕事」というものに対しては常に責任と誇りを持ちたいですし、「働いて給料をもらう」ことを甘く考えるつもりもありません。
なので、仕事や会社に対してはそれなりに誠実に相対しつつ、その中でも上で「こうはありたくない」と書いたような姿勢に陥らないようにして毎日を過ごしていきたいと思うわけです。
私自身が学生時代を運動部(しかも大学はそのリーグで優勝経験もあるような部)で過ごし、常に勝利を求めるような環境で育ったこともおおいに影響しているように思いますし、そのために自発的に努力をするという価値観を植え付けられているのも事実だとは思います。

こんなスタンスで、今後いろいろ文章を書いていきたいと思います。

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