気が向いたときに書いていた雑記がある程度溜まってきたし、自分がちゃんと文章を書けている…

気が向いたときに書いていた雑記がある程度溜まってきたし、自分がちゃんと文章を書けているのか疑問なので、公開。一つ書いたら、古いものから一つ投稿します。

最近の記事

20230802_感情の観察

 I研の領域たるAの席に、いつの間にかH研の4年生が座っていた。何やら(英語のリスニングか何かの)音が聞こえると思って振り向いたら、いつの間にか座っていた。今日Aは来ていないので、勝手に使っているのだろう。  これに対し、自分はムッとした。排除的思想が現れたのを感じた。しかし理由はある程度明確で、自分のコミュニティの領域に他コミュニティの人が勝手に入ってきて、場所を使っている。それだけでなく、皆が静かに作業をしている中で音を出している。迷惑と感じるには十分な状況である。

    • 20230719_権力性と公共性、人間の複雑性

      最近、色々なことを学んでいくと、その裏に共通した大きなテーマとして「権力性」と「公共性」が浮かんでくるような気がしている。 K先生の第一回目の授業。彼女の書いた宮下公園の来歴についての論文を取り扱った。「宮下公園」から「MIYASHITA PARK」へと変遷していく中でホームレスが排除されていった。公共性とは?ホームレスの排除されたそこは公共空間なのか? I先生などが最近興味を持っている「排除アート」はまさにそうだ。公共的な存在であるベンチが、そこに寝ようとする人を排除し

      • 20230707 子供の時間的スケール

        保育園・幼稚園をはじめとした、子供をメインの利用者と想定した建築の設計時には、スケール感に留意せねばならないのは既に様々なところで試みられている通りである。目線の高さが違う、体の大きさが違う。開口の高さ、家具や什器の寸法、アルコーブなどの寸法感などが変わってきて、消極的にも改善されるが、さらに積極的豊かさの可能性が生まれる端緒にもなり得る。 しかし、子供が大人と違うのは空間的スケールだけではない。時間的スケールも異なるというのは、経験上は誰もが分かっていることだろう。 子

        • 20230628 安易な二項対立化

          高校時代、現代文のI先生に教わって以来、二項対立でものを考える事が多くなった。 彼の授業のとある回で配られた紙である。確かA4横使いで、上下二パートに分かれている。自然と人、前近代と近代以降...のように、対立する概念が二つのグループにそれぞれ延々と並べられていた。これとこれが同じ側にあるのか、ということが当然起こるが、彼はそういうものなのだ、というようなことを言った気がする。 それ以来二項対立で考えることが多くなった。癖になっていたと言ってもいい。 建築に関して理解す

        20230802_感情の観察

          20230614 N先生講義を受けて(建築史と音楽ジャンル)

          本日の史学講義は興味深いものであった。 建築の歴史研究において、類型化、様式というものは外せない語彙である。 しかし、こと日本建築史においては、大仏様や禅宗様、和様などの様式を定義づけるような各「特徴」をすべて満たす典型的「~様建築」はごく少数で、圧倒的多数の「折衷様」の個性が無視されているというのである。各部分の特徴はディテールごとに伝播し、各様式(全体)ごと伝達されていくのではない。 それに対し鈴木博之氏曰く「西洋建築史は一時代一様式」だそうだが、建築材料の石と木の差

          20230614 N先生講義を受けて(建築史と音楽ジャンル)

          20230513中三弘前所感

           中三弘前を遠くから見たとき、いわゆる「バブルの遺産」との印象を抱いた。毛綱毅曠が設計した外観であると知るのは後のことである。  (狭義の)ポストモダン建築は時期的にバブル景気と重なり、潮流として相互に影響があったであろうとは思う。建築の議論では時折、そのことを抜きにして純粋に思想のみで語られることがあるが、それは筋違いと思う。  とは言っても、逆に思想的なものを抜きにしてバブルの文脈だけで語られるのも違うだろう。  隈研吾のM2ビルは、日本のポストモダン建築として象徴的な例

          20230513中三弘前所感