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20230719_権力性と公共性、人間の複雑性

最近、色々なことを学んでいくと、その裏に共通した大きなテーマとして「権力性」と「公共性」が浮かんでくるような気がしている。

K先生の第一回目の授業。彼女の書いた宮下公園の来歴についての論文を取り扱った。「宮下公園」から「MIYASHITA PARK」へと変遷していく中でホームレスが排除されていった。公共性とは?ホームレスの排除されたそこは公共空間なのか?

I先生などが最近興味を持っている「排除アート」はまさにそうだ。公共的な存在であるベンチが、そこに寝ようとする人を排除している。

M先生の講義では、どっかの学者が整理した人間の行動を制限する4つの方法として「良心」「法」「市場」とそれ以外である「アーキテクチャ」という手段について紹介があった。例えば、パノプティコンのような監視システム。最近思った例でいえば、ラーメン屋で特定のカウンター席に水のコップが置かれると、言われずともそこへ座ってしまう、というような。最たるものとしては、足立区が公園で高周波の音を流し、たむろする若者を「排除」しようとしたこと、またその成功例から多くの場所で真似されていること。前述のMIYASHITA PARKでも、出入口の自動ドア付近で高周波音が聞こえたことは、皮肉的にも感じる。
そして、我々建築家は、そういった「行動の制限」という行為を行う者なのだ、という自覚も持つ必要があると言った。

N先生の講義では、日本建築史において様式名を与えることによって、圧倒的多数の「折衷様」としての「個」が無視されていることが問題提起された。音楽のジャンル名にも近いことが言えると思うし、これを発端に、言葉を与えること、言語化することの暴力性と権力性について考えるようになった。

サブゼミで輪読した『つくられた桂離宮神話』(井上章一)の論は、日本美の象徴として語られる桂離宮を美しいと思えなかった筆者が、それを賛美しなければならないと感じてしまったことに端を発する。「神話」の持つ権力性の話である。

同様にサブゼミの『皇居前広場』(原武史)では、権力性と公共性の対比が比較的明確に示されている。不可視化された天皇の権力性が、皇居前広場での様々な行動を暗黙の内に制限しているという現状に対して、より公共的な空間にするべきだというのが、著者の一貫した姿勢である。

卒業論文の審査会では、対象の選び方に関する質疑の中で「権威的な」ものであるから、という言葉を用いてしまった。これが明らかなしくじりで、O教授に、俺たちはそういった権威には屈しない、などと言われてしまった。学問と権威性も相性が悪いようである。

「権力性」というキーワードに関しては、卒業設計に対する反省で考え始めた。教育の場である学校で、権力性というのは忌避されるものである。非常に朦朧とした状態で講評会を迎えていたので定かではないが、これもO教授の指摘からきているような気がする。

研究室の先輩に薦められて読んでいる『音楽の危機』(岡田暁生)では、第九の歌詞が持つ、一部に対する「排除」的性格が指摘されている。

建築を学ぶ者としては関連して山本理顕の『権力の空間/空間の権力』を読まなければならないが、まだ読めてはいない。他のリファレンスがインプットされ次第、追記もしていこうと思う。
別の軸の話ではあるが、最近感じるもう一つのテーマは、意外と人間は綺麗なものではない、現実は簡単できれいなものではないということである。「複雑性」と言ってしまっていいのか、ひとくくりにしていい問題なのかどうか、学がないためわからないが。

発端は、K先生講義の、終盤のほうの回である。彼女は震災復興に関する授業のまとめで、「科学的知見では未来を予測することはできなず、その不確かさを受け入れなければならない」と言った。同時に、自治はいかに可能か、自然的(じねんてき)活動は可能か、というようなことも考えているらしい。中央集権的なものではだめだ、というのは、権力性のテーマとも関連が見出せそうだ。

また前述のN先生講義が一つ。言語化することによって、その周辺のぼんやりとしたイメージは、無視/排除されてしまう。
言語化のプロセスは、なんとなく以下のようなものと感じている。空間に漂うふわっとしたもやのようなイメージを言語化すると、それがある程度の幅を持ったベクトルとしてピシッと整えられる(ベクトルは幅を持たないが)。切り捨てられてしまった周辺部分の意味は、伝達の際には伝わらないし、思考の際には自分ですらも忘却してしまいかねない。自分で考えているようで、自分の思考は語彙によって支配されている面がある。
最近は、一つ一つのイメージを言語化する際にも、注意深くなっているつもりである。

古いところでは、ヴェンチューリの『建築の多様性と対立性』がある。今年のサブゼミ三本のラスボスで、訳本なのもあり、そもそも難解なものであり、なかなか理解に苦労している。題にもある「多様性」は、原題では"complexity"、直訳すれば「複雑性」となりそうなものであるが、初の訳本では磯崎が「複合性」と訳している。序盤に、当時すでに他分野で「複雑性」についての研究がされているというようなことも書いてあった。
彼の主張の一つには、近代建築では単一のプログラムの表れとして建築の外皮が作られるが、建築は本来複雑な機能を持っており、外観も当然複合的なものとなるのだ、というようなことが書かれている。

前述『音楽の危機』では、近代以降、人はハイカルチャーと風俗を峻別したがり、都市は後者などの「汚いもの」を排除して「清潔」を目指しているが、どちらもルーツは宗教(「ハレ」と「ケ」でいえば「ハレ」、聖なる行為)で、人間としては根源的なものであるという論証がされている。人間はもともとそんなに綺麗な生き物ではないとも言える。

書いてみて、やはり一見するとこれらの話題は共通するところが薄い。が、要するに、人間はそんなに綺麗にはできておらず、複雑で、簡単には整理/説明することはできないということである。安易な二項対立化も、考えやすくわかりやすいが、注意するべきものである。人間のそういった面を愛し、向き合っていかなければならないのかなぁ、と「問題を頑張って整理しながら」感じるところである。

(20240401 一部改変)

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