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欲望という名の道路

 私には耳慣れたフレーズが、実は日本社会、ひいては世界に対する日本の立ち位置を示しているとかねがね思ってはいたのであるが、そのエレファントカシマシの「ガストロンジャー」の歌詞に対してライブに参加した人々が口々に「生きる勇気をもらった」「明日からまた頑張れる」と言っては日常に戻って生活する様子を見聞きするにつけ、あれ、これは少し遠くの行列ができる喫茶店に並ぶ元気をもらったような感覚であって遠くの富士山を目指していないのではないか、そんな危惧を払拭するためにここで一旦整理しておこうと考えたのである。

 そのフレーズというのは、以下のようなものである。

"俺が生まれたのはそう所謂高度経済成長の真っ只中で、
それは日本が敗戦に象徴される黒船以降の欧米に対する
鬱屈したコンプレックスを一気に解消すべく、
我々の上の世代の人間が神風のように猛然と追い続けた、
繁栄という名の、そう繁栄という名の、繁栄という名のテーマであった。"

 敗戦に象徴される鬱屈としたコンプレックスとは何か、猛然と追い続けた繁栄とは何だったのか、それが今一つ判然としない、だから人々は自分の日々の糧にこの歌の持つエネルギーを消費してしまい、この歌詞はきっと社会全体のことを指しているのであって、自分たちとは余り関係しない、と半ば他人事と捉えているような気がしてならないのだ。

 ところで、私はこの5月のゴールデンウィークに生まれて初めて自家用車で関東方面に向かった。説明すると長くなるが、3月に予約していたホテルをキャンセルするのをすっかり忘れていてキャンセル料金100%がかかってしまうのが勿体なくて意を決してよりによって沢山の人が集中して押し寄せる関東圏という死地に赴いたのであった。関東圏は様々なイベントや行楽地が過密状態であり、地方民にとって大変魅力的に見える竜宮城なのである。私は何も無ければ混雑する場所は極力避けたいところだ。しかし、これも人生経験の内である、と重い腰を上げてみたのであった。

 いつも、長距離運転をする場合、私は迷わず高速道路を走行するようにしている。何故ならば、目的地に早く到着したいからである。しかし、ゴールデンウィークはわけが違う。会社勤めをする人々が何日間かの長い休暇を行楽地で過ごそうと、同じ思考同じ行動のもとに高速道路に渋滞を作る。そのような人々は背に腹は代えられないと思っているのかもしれないが、途中休憩場所も無くただ車中でじっと渋滞が解消されるのを待っているのに自分が耐えられるかと言われればそれは土台無理なのである。普段、いかに人気ラーメン屋の評判が良かろうが、長時間行列に並ぶのを想像すると心底嫌と思うほどなのに、高速道路の渋滞なんて監獄同然だ。そんな責苦は身震いするほど嫌なのである。そこで、私は途轍もなく長い時間走行するはめになるかもしれないが、一般道路を選択してみたのである。

 国道を南下し、福島県から茨城県、栃木県と走っていると、両脇に大小様々の店が見えた。私は普段、両脇に樹木や廃墟や全国何処にでもあるチェーン店しかないような国道を走っているのでとても新鮮な光景に見えた、と同時に不思議と何となく昔見たことのある風景だとも感じたのである。それが何でそう思えたのかは分からないが、私が幼いころ、約30~40年前の建物の色合いに見覚えがあったからなのではないかと推測する。地方に行くと分かるが、山あいや海辺のかつて観光が盛んだった頃の建物はすっかり衰退して廃屋が軒を連ねている場所が相当ある。それらは、きっとかつては今の国道脇の建物(チェーン店を除く)と同じような色合いだった気がする。懐かしい風景、高度経済成長期の人々が高速道路よりも古い街道をゆっくり時間をかけて旅をしたその名残りなのだ。

 人々は、時間を短縮し、目的地に早く到達して一つでも多くの観光地を回りグルメを楽しむ為に高速道路を行く、それは黒船以降欧米に対する鬱屈としたコンプレックスを一気に解消する為に猛然と追い続けた日本の姿に似ている。人々は日本を世界に通用する強大な国にするという理想に向かって邁進したはずだ。そして欧米列強に肩を並べようとその生活様式を取り入れつつも、日本が長年得意としてきた他国の文化文明を自国で改造し他国を凌駕する技術を以てして再び世界に躍り出ようとしたのである。欧米の文化という高速道路に乗って目的地へ早く到着しようとする戦後の日本人の姿と、先を急ごうとする観光客の姿とが重なって見えた。

 しかし、である。実際にその車に乗っている人々は、相変わらず運転者ばかりが神経を尖らせ、脇目も振らずに一心不乱に目的地を目指し、同乗者は両脇にほぼ何の店も無く、パーキングエリアで土産物を見たりトイレで用を足すだけでつまらなそうにしている。目的地までこの繰り返しだ。しかも、同じような行動をする人が沢山いるおかげで渋滞が発生し、疲れて居眠り運転をして重大事故に巻き込まれる場合もある。これは日本社会の縮図だ。現在、日本での鬱病患者は、総人口の内15人に一人の割合でいるそうである。それは人々が大きな理想、目的地に向かう過程で知らず知らずのうちに多大なストレスや疲労感を溜め込んでしまうせいで居眠り運転をして壁に激突してしまっている証拠である。運転者は同乗者を守る為にも、こまめに休憩を挟むか、一度一般道に下りてのんびり風景を楽しんで飽きのこない様に努める必要がある。

 ガストロンジャーの歌詞に戻ろう。何故、人々は”どっちらけ”になっているのか。日本人の理想、繁栄という名のテーマは「日本人の先祖伝来の思想や技術、叡智を以て固有の文化を世界に知らしめる」事であるとしよう。ところが、猛然と追い続けた割には、結果として人々は戦争の醜さを忘れ欧米の文化を礼賛し固有の文化を世界に知らしめるどころか、欧米で評価される音楽や文化、流行するファッションをなぞり書きしている。その虚無感が”どっちらけ”の正体なのである。自分たちの本来目指すべき目的地は少し先の喫茶店の行列ではなく、さらに先の富士山であるべきだ。もっと言ってしまえば、本当に目的を果たしたい人は皆と同じように渋滞する高速道路は選ばずに、新幹線や飛行機や他の別な手段を使ったり、目的地自体がもっと遠くの誰も行かないような離島であったりするのだ。日本人は習慣を簡単には変えない傾向があるので、自分が幼いころからテーマパークやハワイに行っていれば大人になっても同じ様な目的地に行こうとする人が多い。

 鬱病大国日本では、達成しようとした目的があってもその前に力尽きた人や、他人から理不尽な理由で貶められた人、目的地に着いたものの達成感が得られなかった人が罹患している気がする。その人々は元来、真面目で自分事で行動しようとする性質である。料理を作って家族に駄目出しされたり、インスタグラム用に写真撮影だけして料理を全部残される人を想像してみて欲しい。大半の人はがっかりすることだろう。逆に、鬱病になりにくい人は周囲の人が善良で辛い経験をしたことが無いある意味幸福な人、もしくは誰かの行ったことに対して文句を言ったり軽んじたりする常に他人事で済ます人であったり、不真面目か物事に深く関心を抱かない浅薄な人なのだろうか。いずれにせよ、何かを成し遂げたいと理想を抱く人は、自分にその様な辛い経験が少なからずあるので決して他人を茶化したり馬鹿にしたりはしないものだ。

 私が到着した目的地、千葉県では、現在県誕生150周年記念事業の一環で「百年後芸術祭」が5月26日まで開催されている。今後、100年を自分たちではない他者がどう生きるべきなのか、想像力を働かせて今の自分たちが看過している問題を演劇や音楽、アート作品を通じて他人事を自分事と捉え未来に繋げる取り組みである。環境と欲望、インフラと人間、自己と他者、芸術と生活、精神と社会、一見何の繋がりも無い物事には想像を超える未来へのヒントが隠れている。私は自分の生活がいつも思想の拠り所として機能している。ロック音楽の歌詞もその一部だ。


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