哲学界屈指の問題作『論理哲学論考』解説
どうも、ヲヌです。ヴィトゲンシュタインが生前に出版した唯一の哲学書『論理哲学論考』(以下『論考』と略記)の解説をしたいと思います。
『論考』は高校倫理の範囲にも含まれるほど哲学界に多大な影響を与えました。それは、ただ単に『論考』で語られている内容が論理的に正しいからだけでなく、独特な文体や構成、さらには著者であるヴィトゲンシュタイン本人の哲学に対する態度などが総じて評価されたからであると私は考えています。
当記事は、そんな哲学界屈指の異質で難解な哲学書である『論考』の大まかな内容の理解や学問的背景などについての“つかみ”の役割を果たしたいと考えています。
そのため、この記事を読んだだけで『論考』の全てやヴィトゲンシュタインの全てが理解できるなどと言う気はなく、あくまでも、この記事は複雑で難解な『論考』の難易度を幾許か下げようという意図で書かれています。
それにより、少しばかり定義や表現が大雑把であったり、不正確な点があったりするかもしれませんが、その点についてはご容赦願います。(それでも正しく・わかりやすくしようと一生懸命がんばってはいます)
尚、当記事での『論考』からの引用部は、光文社より出版されている丘沢静也氏訳『論理哲学論考 (光文社古典新訳文庫)』からのものです。
『論考』の構成
『論考』は主に7つの主要な命題から構成されており、そして、その命題を補助する命題があり、更にその命題を補助する命題があり、そしてその命題を補助する更なる命題…というように、一本の幹から枝が生えるようにして構成されています。例えば、命題1を補足する命題1.1、命題1.1を補足する命題1.11…というような具合です。そして、整数番の命題は複数の文章の中でも特にヴィトゲンシュタインが重要だと考えた文章に割り当てられています。
実際に各キリ番の命題に記述されている断章は以下のとおりです。
1 世界は、そうであることのすべてである。
2 そうであること、つまり事実とは、事態が現実にそうなっていることである。
3 事実の論理像が、考えである。
4 考えとは有意味な命題のことである。
5 命題は、要素命題の真理関数である。(要素命題は、それ自身の真理関数である)
6 真理関数の一般的な形式は、こうだ。[p̄,ξ̄,N(ξ̄)]これは、命題の一般的な形式である。
7 語ることができないことについては、沈黙するしかない。
なので当記事では、主要な7つの命題を挙げて、その説明として幾つかの枝葉の部分の命題を取り上げて解説・考察しようと思います。よければ、『論考』を片手にこの記事を読んでみても面白いかもしれません。
と、その前に、そもそもこの『論考』という本がどのようなことについて語られているのか、その特異性と難解さの所以、『論考』が生まれた学問的背景とは、について、前置きとして語っておこうと思います。
『論考』で語られていること
ここで言う、『哲学の問題』とは、『神』や『善/悪』はたまた『真に存在するものとは』のような、私たちの経験的な次元を超越した概念についての──もっと簡単に言うと、私たちの目に見えない抽象的な概念についてのことです。
これらのような問題について考える哲学の範囲区分のことを、哲学用語で形而上学と言います。
『語ることができないことについては、沈黙するしかない』という有名なセリフ(岩波文庫訳の : 『語り得ぬことについては、沈黙せねばならない』というフレーズの方が有名かもしれませんが)は、このような形而上学的な概念について述べられた一節です。
ヴィトゲンシュタインは『論考』で、『論理』と『言語』の関係性について、明晰に分析した上、形而上学的なことを『語ることができない』とし、そのことについては『沈黙するしかない』と言い、哲学において語られてきた形而上学的な概念について否定しました。ここで言う『否定』とは、あくまでも『間違っている』という意味ではなく『ノンセンス(無意味)である』ということを意味しています。
そして…
というわけで『論考』は『哲学の問題を全て解決した』と宣言しちゃっているかなり大胆で豪快な本です。
つまり、『論考』の最終目的は、7つ目の命題『語ることができないことについては、沈黙するしかない。』という命題を言うことであり、そのために1〜6の命題が説明として存在しているということです。
『論考』の特異性 / 『論考』誕生の学問的背景
『論考』の特異性は、“『論考』の構成”パートで説明済みの「命題の構成」だけでなく、『論考』が誕生する際の学問的背景にも密接に関わっています。
『論考』が誕生する際、学問では──中でも、論理学界では、謂わば革命とでも言うべき、天地を揺るがす一大事件が発生していました。
それが、『記号論理学』の誕生です。
そもそも、論理学という学問は、2000年以上前に古代ギリシャの有名な哲学者・アリストテレスによって作られて以降、殆ど手付かずのまま放置されていました。(この頃の論理学のことを『伝統的論理学』と言ったりします)
論理学で行われていることはしばしば、推論の形式的記述です。倫理の教科書によくある、推論の中でも『三段論法』についての説明の例として、「ソクラテスは人間である」「人間はいつか必ず死ぬ」⇒「ソクラテスは必ず死ぬ」という推論が挙げられるように、「A=B」「B=C」⇒「A=C」のような論理的推論の記述が行われます。
その後、ゴットロープ・フレーゲ、バートランド・ラッセルらによって放置されていた論理学は大幅に改善・改革されることとなります。
これにより、新たに『記号論理学』が生まれます。記号論理学はさらに、『命題論理』と『述語論理』に分けられます。
『命題論理』では、『要素命題』を『論理結合子』で結ぶことで論理を記述します。要素命題は、論理をそれ以上分解できない段階まで分解した、論理を構成する最小単位です。私たちにはこれを目で見たり考えたりすることは難しいので、数学っぽくpやqなどのアルファベットで表されます。例えば、『ソクラテスは人間である』と言う命題があるとします。命題論理ではこの命題を『“それ”がソクラテスならば“それ”は人間である』と解釈し、『ソクラテス⊃人間である』と記述されます。この場合、「ソクラテス」、「人間である」は全然最小単位でも何でもないレベルの単語ですが、便宜上要素命題とした場合、「⊃」が論理結合子になります。(論理結合子には複数の記述法がありますが、今回は『論考』での記述法に合わせます)
また、要素命題を論理結合子で繋げて出来た命題を『複合命題』といいます。
論理結合子「⊃」は前者(左側)が正しい(真)の場合、後者(右側)も真になります。
論理結合子は他にもたくさんありますが、今回は『論考』を読み進めるにあたって必要最低限の4種類のものをまとめます。
⊃は前者が真の場合、後者も真になります。
<例>p⊃q (pならばq) , ソクラテス⊃人間である
(“それ”が)「ソクラテス」 ならば 「人間である」
↪︎ソクラテスは人間である
~はのちに続く要素命題を否定します。
<例>~p (pでない) , ~雨が降る⊃~傘をさす
「雨が降る」でない ならば 「傘をさす」でない
↪︎雨が降らなければ、傘をささない
.は左右にある要素命題がどちらも真の場合に命題が真になります。
<例>p.q (pかつq) , 雨が降る⊃~外出する.本を読む
「雨が降る」 ならば 「外出する」でない かつ 「本を読む」
↪︎雨が降れば、外出せず、本を読む
∨は左右どちらか、あるいは両方の要素命題が真である場合に命題が真になります。
<例>p∨q (pまたはq) , 朝ご飯はパン∨朝ご飯はご飯
「朝ご飯はパン」 または「朝ご飯はご飯」
↪︎朝ご飯は、パンまたはご飯
述語論理では、『何が』『どのグループに属しているか』を記述します。
例えば、『リンゴは赤い』は、『“それ”がリンゴならば、“それ”は赤い』という意味で、『リンゴ⊃赤い』と記述できますが、『リンゴは「赤い」に属する』と解釈することもできます。
述語論理では、『全てのAはBに属する』を『∀A(B(A))』と記述します。『∀』は『全称記号』などと呼ばれます。なので、『リンゴは「赤い」に属する』という論理は『∀リンゴ(赤い(リンゴ))』と記述されます。
また、『とあるもの𝓧は𝓨に属する』を『∃𝓧(𝓨(𝓧)』と記述します。『∃』は『存在記号』などと呼ばれます。そのため『あるリンゴは青リンゴなので赤くない』は、『「あるリンゴ𝓧」は「青リンゴ」に属し「赤い」に属さない』として、『∃リンゴ𝓧(青リンゴ(リンゴ𝓧)).~(赤い(リンゴ𝓧))』と記述されます。
──さて、これにて暴力的に長い前置きは終わりにしたいと思います。ここまで読んで下さった方々なら、何故『論考』が難解だと言われているのかの所以が、自ずとわかったことでしょう。繰り返しますが、ここまではあくまでも前置きです。『論考』は複雑で独特な文体や構成だけでなく、最低限の記号論理学の知識を持ってはじめて読み進めることができます。
1 世界は、そうであることのすべてである。
命題1で展開される理論は、『世界とはどういうものか』についてのものです。枝葉の文章では、『1.1 世界は、事実の総体である。事物の総体ではない。』とあります。『事実』と『事物』の違いが重要そうですね。命題1ではこれ以上特にこれといったことは言及されていないので、命題2を見ていきましょう。
2 そうであること、つまり事実とは、事態が現実にそうなっていることである。
ここで、命題1で出てきた『事実』についての説明が為されます。しかし、今度は『事態』という新しいワードが出てきました。直後の枝葉の命題は『2.01 事態は、対象(事柄、事物)が結合したものである』とあります。
ここで、1つの文章にまとめてみましょう。
『世界は、対象(事柄、事物)が結合したものが、現実にそうなっていることの総体である。』
一見すると、非常に難解な文章に見えますが、ヴィトゲンシュタインは世界のことを『私の目の前に本がある』や『机の上に本がある』などのモノ(事物)とモノ(事物)との関係性が集まったものであると考えたということです。
もし、この世界の有り様を記述しようとするとき、皆さんはどう考えるでしょうか。おそらく、多くの人は『世界には、空間があって、宇宙があって、星があって、地球があって、生物がいて、ヒトがいて、植物があって…』というように一つ一つのものを数え上げるように考えると思います。
これは、『世界は、事物の総体である。』という考え方ですが、ヴィトゲンシュタインは、『1.1 世界は、事実の総体である。事物の総体ではない。』と主張します。何故事物の総体ではいけないのか、もし、この世界が事物の総体だとすると、『私は学校に行った』のような、私たちの人生で起きている様々な経験や物事も、『世界には、私と学校が存在する。』の一文で片付けられてしまい、世界が非常に空疎な物となってしまいます。
それに、私たちは『事物』について考えることができません。
例えば、『リンゴは赤い。』という文章は、一見すると『事物』について思考しているように見えますが、『リンゴは赤い。』について正しいか間違っているかを判断するには、実際に目で見たりして確認する必要があります。すると必然的に、『私の目の前にリンゴがある。』『私は目の前のリンゴを赤いと思っている。』という『事態』について考えることが必要になります。
さらに、『リンゴは赤い。』について判断するには、『リンゴ』『赤い』という要素命題の定義を定める必要があります。すると、『これは「リンゴ」である。これは「リンゴ」でない』。』『これは「赤い」である。これは「赤い」でない。』などと比較する必要があります。するとやはり、『これ✏️はリンゴではないのに対し、これ🍎はリンゴである。』『これ🍩は赤くないのに対し、これ🍅は赤い』などという『事態』つまり、『対象(事柄、事物)が結合したもの』について思考せざるを得ません。
また、『2 そうであること、つまり事実とは、事態が現実にそうなっていることである。』という文から、『事実』と『事態』の違いについても知ることができます。『事態』が事柄や事物が結合したものなのに対し、『事実』は中でも『事態が現実にそうなっていること』であり、『事態』より狭い範囲を指しています。
さらに、『2.1 私たちは事実の像を作る』とあります。私たちは、現実に起きている出来事に対して、『像』というものを作るということですね。像については、『2.11 像は、論理空間の状況をあらわしている。事態が現実になっていることを、そして事態が現実になっていないことを、あらわしている。』『2.12 像は、現実の模型である。』という2つの命題でわかりやすく説明されています。『論理空間』とは、成立しうる事態全般を指す用語です。
例えば、『ヴィトゲンシュタインはオーストリアに生まれた』は事実なので、同時に事態でもあります。『ヴィトゲンシュタインはタイムスリップしてこの記事を書いている』は事実ではありませんが、成立しているので、事態です。しかし、『延命は赤色し、気候風土と犬した。』は文法的には正しいですが、お世辞にも成立しているとは言えません。
この場合、事実/事態である『ヴィトゲンシュタインはオーストリアに生まれた』『ヴィトゲンシュタインはタイムスリップしてこの記事を書いている』は論理空間内に含まれ、論理として成立していない『延命は赤色し、気候風土と犬した。』のような文は論理空間に含まれません。
像は、この論理空間内の事態が現実に なっている/なっていない ことを示す、現実の模型であるということです。像は、論理空間内のもの、つまり事態を表現していればいいので、絵でも写真でも何でもいいんですが、『論考』では主に言語で出来た命題について語られています。もっとも、命題はかさばらないですし、簡単に作れて便利ですからね。
また、『2.16 事実が像であるためには、事実は写像されたものとなにかを共有する必要がある。』 『2.17 像は、現実をそのやり方で──正しく、またはまちがって──写像することができるためには、何を現実と共有している必要があるのか。写像形式である。』 『2.18 どんな形式であっても、どの像も、現実をとにかく──正しく、またはまちがって──写像することができるためには、なにを現実と共有している必要があるか。論理形式である。つまり、現実の形式である。』 とあります。これらの命題は、像が事態をコピーするとき、事態の持つ『論理形式』を『写像形式』としてコピーするということを意味しています。
例えば、あるサッカーの試合の様子を像で表してみましょう。言葉でそのサッカーの試合の様子を精密に表した場合、その試合の様子を表すことはできても、匂いや音までも表すことはできません。そのサッカーの試合をテレビで観ましょう。このとき、映像という像ではその様子や音や時間経過を精密に表していますが、流石に匂いや実際のその試合に出場している選手の触覚などを写すことはできません。
このとき、『サッカーの試合』という事態のもつものが『論理形式』、『文章』や『映像』で移された論理形式の一部は『写像形式』です。
また、『2.181 その写像形式が論理形式なら、その像は論理像と呼ばれる。』とあります。
ここまでくると次の命題3の文章の意味もなんとなくわかるのではないでしょうか。
3 事実の論理像が、考えである。
『事実の論理像』は、現実で起きた出来事を写した像のことです。
私たちは生きている中で、様々な現実での出来事を認識しますが、私たちはそれらに対してただただ眺めるだけでなく、この『事実の論理像』を使い、様々なことについて考えます。つまり、私たちの『思考』の正体は『事実の論理像』であるということです。
また、命題3では他にも、「日常言語ってあやふやでややこしすぎね?」みたいなことも言われています。『3.322 私たちが2つの対象を、 同一の記号によってあらわしても、あらわし方が異なっているなら、2つの対象に共通のメルクマールをしめすことはできない。 というのも記号は任意のものであるからだ。 だから、 異なった2つの記号を選ぶこともできなくはないだろう。 その場合、 あらわし方の共通点はどこにあるというのだろう?』 『3.323 日常言語では、じつにひんぱんに起きていることがある。まったく同じ単語が、異なったやり方であらわしている──つまり異なったシンボルに属している──かと思えば、2つの単語が、異なったやり方であらわしているのに、見かけのうえでは同じやり方で、文章に用いられているのだ。(中略)(≫Grün ist grün« [グリューンはまだ青い(未熟だ)]という文章──最初の単語は人名の「グリュー ン」であり、最後の単語は形容詞の 「まだ青い」であ る──では、これらの言葉は、たんに異なった意味をもっているだけでなく、それぞれが異なったシンボルなのだ)』
3.322では、「論理がややこしくならないように、同じ言葉で別の意味があるようなことや、一つの言葉に複数意味があるようなことは起きてはいけない」ということを言っています。そして、3.323では、「でも日常言語ってそういうの多いよね」的なことを言っています。例として、「グリューン」という言葉を挙げています。「グリューン」はドイツ語で、人名としても、「未熟な」という形容動詞としても使われるので、「グリューンはグリューンである(グリューンは未熟である)」という文は、同じ「グリューン」が2回出てきているのに、それぞれ別の意味を表しています。
ヴィトゲンシュタイン曰く、このように日常言語の意味や定義が曖昧すぎるが故に、哲学における様々な問題が発生するということです。そのため『論考』では、緻密なレベルまで分解された言語である、論理記号を使って考えよう的なノリがあります。しかし、そのせいで命題3以降は定期的に謎の記号や数式が出てきたりして、難易度が絶望的に上がっています。
4 考えとは有意味な命題のことである。
『有意味な命題』とは、成立しうる論理空間内のもの、つまり、事態のことです。私たちは、事態の論理像を使い思考するので、その『思考』自体も事態のように、『有意味な命題』であるということです。
5 命題は、要素命題の真理関数である。(要素命題は、それ自身の真理関数である)
さて、ここから話は一転し、前置きで話した記号論理学の話が入ってきます。と言っても、そこまで身構える必要はありません。
例えば、『p.q』(pかつq)という命題があるとします。この命題は、pとqが両方とも真である場合にのみ、命題全体が真になります。また、『p∨q』(pまたはq)という命題は、pかqの、どちらか一方または両方が真の場合に、命題全体が真になります。
これらの関係性をまとめると、こうなります。
p.q : p / q
真 / 偽 : 偽
偽 / 真 : 偽
真 / 真 : 真
偽 / 偽 : 偽
p∨q : p / q
真 / 偽 : 真
偽 / 真 : 真
真 / 真 : 真
偽 / 偽 : 偽
同様のことを、⊃でも行うと、以下のようになります。
p⊃q : p / q
真 / 偽 : 偽
偽 / 真 : 真
真 / 真 : 真
偽 / 偽 : 真
これらのことは、要素命題の真偽が、その要素命題が用いられている複合命題の真偽を決めるということです。まあ要は、『その文が正しいかどうかはその文に使われている言葉が正しいかどうかで決まる』みたいなことです。『私はコーヒーを飲んだ、かつ、私はパンを食べた』が正しいときは、『私はコーヒーを飲んだ』が真かつ、『私はパンを食べた』が真の場合のみです。
これって、数学の関数と似てませんか?『y=2x』という関数において、yの値が定まるのは、xの値が決まったときです。言い換えると、xに値を入力したときに、yの値が出力されます。
複合命題も同じように、要素命題の真偽値(真/偽のこと)を入力したときに、複合命題の真偽値が出力されます。
『命題は、要素命題の真理関数である。』は言い換えると『要素命題の真偽値は、“命題の真偽値を定める関数のようなもの”(=真理関数)である』ということです。この文の意味がわかると、続きの『(要素命題は、それ自身の真理関数である)』の意味もわかると思います。『要素命題の真偽値は、その要素命題の真偽値を定める関数のようなものである』もっというと『その要素命題の真偽値が、その要素命題の真偽値を決める』そりゃそうだろってなります。
6 真理関数の一般的な形式は、こうだ。[p̄,ξ̄,N(ξ̄)]これは、命題の一般的な形式である。
この、[p̄,ξ̄,N(ξ̄)]が意味不明だと思います。まず、p̄は要素命題のことを表しています。そして、ξ̄(この記号はギリシャ文字のξの上に線を入れたものです)は、全ての要素命題と複合命題のことです。つまり、p̄はξ̄に含まれます。そして、『(ξ̄)』の前にある“N”は否定論理和といいます。Nの役割は、続く()内の命題を否定すること。ここでは、(ξ̄)を、つまり、全ての要素命題と複合命題を否定しています。
つまり、[p̄,ξ̄,N(ξ̄)]は『全ての要素命題と複合命題は命題ごと否定する記号“N”だけを使って表せる』ということを意味しています。どういうことかというと、例えば、『p.q』という命題には、.という論理結合子が使われていますが、こんな論理結合子を使わなくても、Nと, (これは論理結合子ではなく命題同士の間に書いて区切るものです)だけで、『N(N(p),N(q))』として表すことができます。『N(p),N(q)』はそれぞれ『pではない、qではない』で、『N(N(p),N(q))』はこのことの否定なので、『pではない、qではないのではない』つまり『pかつq』という意味になります。
このように、命題6では、どんな論理結合子も、否定論理和Nに代替されるということが言われています。
p.q : N(N(p),N(q))
p∨q : N(N(p,q))
p⊃q : N(N(N(p),q))
~p : N(p)
だから何やねん感が芳醇ですね。では何故ヴィトゲンシュタインはこのことを言ったのでしょうか。
「三角形の面積の公式は?」と聞かれたら、まあ小3〜5年生らへんの義務教育を受けたことある人は全員、『底辺×高さ÷2』と答えると思います。では、この公式を文字式で表しましょう。『面積=底辺×高さ÷2』と書きたいので、仮に面積をA、底辺をB、高さをCとすると、[A=BC/2]となります。
急に何の話やねんということですが、これは命題5の真理関数の話に関係します。『5 命題は要素命題の真理関数である。』とありましたが、[A=BC/2]では、A,B,Cがそれぞれ要素命題になります。つまり、[A=BC/2]は三角形の面積を表す関数になり、これを数学では公式一体するんですが、ヴィトゲンシュタインは「じゃあその命題版って何?」となったわけです。A,B,Cが命題の真理関数、つまり、『数値を入力すると命題全体の数値が出力される』関係にあるのはあくまでも、[A=BC/2]という式の場合のみです。しかし前述の理由によりヴィトゲンシュタインは、『6 真理関数の一般的な形式は、こうだ。[p̄,ξ̄,N(ξ̄)]これは、命題の一般的な形式である。』と考えました。つまり、[A=BC/2]が三角形の面積についての公式なら、[p̄,ξ̄,N(ξ̄)]は全命題の公式であり、真理関数であり、『命題の一般的な形式である。』と考えたわけです。
7 語ることができないことについては、沈黙するしかない。
前置きで、『論考』の最終目的は、7つ目の命題『語ることができないことについては、沈黙するしかない。』という命題を言うことであり、そのために1〜6の命題が説明として存在していると話しましたね。では、今までの話がどう『語ることができないことについては、沈黙するしかない。』と繋がるかという話をしたいと思います。
命題1〜2らへんでは、「この世界は事物と事物の関係でできている」的なことが言われており、命題3〜4らへんでは、その「事物と事物の関係」=事態 を写し取ったのが像で、像を使って人は思考する。そして像の中でも命題が凄い便利で身近なので、『論考』ではこれから主に命題について話すよ〜みたいなことが言われていました。命題5〜6では、「命題に使われている言葉の真偽を確かめれば、その命題の真偽がわかる」と語られています。
ではここで「善とは◯◯である」と主張したとします。この場合、「善とは◯◯である」という命題の真偽は「善」「◯◯」の真偽によって定まるわけですが、しかし、人間は善というものを直接見たことがないので、「善」についての真偽値を取ることができないわけです。
つまり、ヴィトゲンシュタインに言わせれば、「神とは〜」「存在とは〜」「善とは〜」みたいな形而上学的なことは、命題という像として、論理像として成立していないので、言葉にすらならないような「語ることができないこと」であり、論理像に出来ないなら思考も出来ないので、そのような形而上学的な事柄について我々が言えることは『語ることができないことについては、沈黙するしかない。』ということでしかない訳です。
『論考』最大の矛盾
以上が、『論考』の概要です。しかし、最後の命題7の直前の命題6.54には、このようにあります。
『論考』で行ったことは、思考の範囲についての枠を作ることです。しかし、思考の範囲を決めることそれ自体に特段価値のあることではありません。『6.1 論理学の命題は、トートロジーである。』とあります。トートロジーはざっくりいうと、当たり前すぎてなんも言っていないのと同じような論理のことです。トートロジーのとして、p∨~p(pまたはpではない)や、p=pのようなものがありますが、ヴィトゲンシュタインは論理学における命題は、全てトートロジーであると考えました。
例えば、A=Bという命題があるとします。するとB=Aも同時正しくなり、A=B=A,A=Aのように、トートロジーが導き出せます。
ヴィトゲンシュタインはこのように、論理にはそれ自体に特別な価値はなく、あくまでも「ハシゴ」のように、世界について見る道具のようなものでしかなく、この本も、この本の理論を理解した人にとっては、使われた後のハシゴのように投げ捨てられる運命にあると考えました。
命題7にはあの一文以外何もなく、補助する命題もありません。
ヴィトゲンシュタインは、語れることについては考えることで、「語れる/語れない」の境界線を示し、境界線に立ち尽くしたまま沈黙を貫いたのかもしれません。
まあ、そのご後本人がその沈黙を破ることになるんですが、それはまた別のお話。
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