言葉と音
まとめ記事を読んで、へえーそういう人って多いんだ、とちょっと驚いた。
当方は文章って、目で見て「記号」として理解するだけなので、いちいち脳内に音声を流すことができるなんて逆に凄い、と感心してしまう。たとえばイントネーションや発音のわからない文字は、どう脳内で読み上げているのだろうか。
とはいえ言葉って、ゆっくり声に出して音で鳴らした方が、いろんな深い意味が伝わってくるし、腹の底からわかってくるのだろうとは思う。当方みたいに黙読速読しちゃう方が「邪道」なのだ。
なぜなら、そもそも「文字」という視覚記号の文化が生まれたのは、つい最近にすぎない。それまで人類は長い間、ずっと「音声言語」だけでコミュニケートしてきたのだから。
というか、そもそも「言葉」が発生する以前に、まずは「音楽」があった。その「音楽」から過剰なエモーションを削ぎ落とし、抽象的に整形することで、「言葉」という人工的な記号が作られてきたのではないか。
そう推測するのは、自分自身の育児経験が根拠だ。
乳児は最初ウワーとかウーとかうなったり手近な物を叩いたりしてるが、成長するにつれて次第に単語を発明し、いつしかまとまった言葉をしゃべるようになる。
人類もまた、長い時間かけてそのように「成長」してきたのだと思う。(ちなみに音楽は、理路整然とした言葉よりも、乳児のウワーという衝動的な叫びの方に近い表現だ。どんなに洗練されようと)
思うに、人は生まれた瞬間、自分を取り囲む光も音も温度も、全情報をまるごとそのまま受け止めているのだろう。音で言えば、全周波数帯が鳴り響くホワイトノイズのように。
だがそれでは全てがカオスすぎるので、フィルタリングすることをおぼえ、情報を遮断して絞りこんで、なんとか状況を把握できるよう「成長」していく。
だが、このフィルタリングはあくまで人為的なものなので、常に「なんか、ちがう」感がつきまとう。
フィルターを通して見えている「この世界」だけが本当の世界じゃないのではないか。そんなうっすらとした違和感を抱えて、人は生きていかざるをえない。
だから、絵やダンスや音楽のように「非言語的」な表現に触れると、フィルタリングする前の、いわば赤子として世界を肌で受け止めていた時の感覚が、つかの間よみがえってくる。この「懐かしさ」が、人を惹きつけるのではないだろうか。
小説や演劇や映画などの「物語」表現や、「歌詞」を伴う楽曲の情報量には、確かに圧倒されるし、素直に楽しく感じる。
だが一方で、そういった「言葉の世界」を経由しない絵やダンスや、「詞」を伴わない音楽にも、説明のつかない不思議な魅力を感じることがある。それには、こういった理由もあるのかもしれない。
(2022.11.3)
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