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「自分語り」より「他人語り」


教えている美術大学で、ある時期、映像制作のワークショップを担当していた。

「なんでもいいから自由に」と作品を作らせると、「自分」や「内面」を語り始める学生が多かった。みんな「オリジナリティをどう表現するか」に悩みまくっているようだった。

実家のそばの公園の景色とか、ペットの猫とか、幼少の自分が波打際に佇むビデオテープのコピーとかを、ノスタルジックな音楽に合わせて編集してきました。みたいな感じの、ザ・心象風景的なイメージ映像。観せられる側としては「はあ、そうですか」としか言いようがない。

そこである時期、ドキュメンタリー作品を撮る課題に切り替えた。テーマは「他人」に限定。

歴史や社会についてのドキュメンタリーは時間もかかるし難しいが、人間が対象なら短期間でもそれなりに掘り下げられるのではないか、という意図だった。

すると、ものすごく面白い作品が出現し始めた。

ゴミ回収業に就いた同級生、実家のコンビニで働く幼なじみ、親戚が営むボーリング場の裏側、バイト先の歌舞伎町ホストクラブ、学生プロレス団体、芸者置屋、幼稚園の先生、LGBTの政治家、ビジュアル系バンドマン、ブレイクを目指す地方アイドル……

実に幅広い撮影対象。学生が持ってくる映像を毎週観るのが楽しみになった。

ドキュメンタリーは、ぶっちゃけ「素材=被写体で決まる」ところがある。この一点で、資金も技術もない学生にも感動的な作品が撮れてしまう可能性がある。

さらに言えば、学生という身分だからこそ、その年齢だからこそ撮れる作品もある。大人やプロの作品にはない、その時期だけの価値というものがある。

そもそも「自分」がテーマだと、「他人にどう観られるか」よりも「自分が何を観せたいか」の方を優先してしまいがちだ。

ところが「他人」がテーマだと、撮影していても「自分」の思い通りにならないことがどんどん発生する。そのとき撮り手は、予期していなかった新しい方向に踏み出さざるを得ない。そこが面白い。

内面なんていうあやふやなものを表現しようとするより、外に出て未知の誰かと出会い、反応しながら「自分」なんか捨てていく方が、結果的にはオリジナルな表現が生まれる。

そんなことを、ぼく自身、この演習から学んだのであった。


(2015.2.23)

http://www.wonosatoru.com



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