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人間になりたかった

長い間、機能不全家族について考えてきた。

機能不全家族の中で育ったのだから当然といえば当然である。人格が確立されたあと、ハラスメントや暴力を数か月から数年単位で受け、うつ病になった人が寛解するまでに十年かかることもざらなのに、まだ精神のやわらかい子供がおよそ二十年に渡って支配を受ければ、その影響は一生に及ぶ。

けれども世間はそれをわかってくれない。
かれらは家庭をもっとも小さな社会の単位だとは認識していないのだ。
家庭には特別な魔力があり、すべての抑圧は無力化されると思っているのかもしれない。だから「大人になっても親のせいにするな」とか「家族なんだから分かり合える」などと言うのだろう。

家庭とはもっとも小さな社会の単位だ。構成者は個々に人格を持ち、権力勾配があり、容易に抑圧が発生する。


ゲンロンSF創作講座というものがある。ゲンロンという会社が主催するSF作家養成講座で、毎月お題に従って短いあらすじを書き、現役作家や編集者にコメントをもらう。評判が良ければ実作として1万字程度の短編を書き、評価をもらうことができる。年度の最後には全員が実作を書き、その中からゲンロンSF新人賞が選出されるのである。
2018年にこの講座に参加すると決めたとき、最後の実作は必ず機能不全家族ものにしようと決めていた。評価は低くなるだろうと思っていた。
実際に、およそ想像した通りの反応があった。「純文学の新人賞では似たようなものがたくさん送られてくる」「またこれかという感じがある」「太い道をそのまま通り抜けただけだった」…

たとえば恋愛要素のある小説にたいして「こんなものはごまんと送られてくる」と評するだろうか? たとえば「宇宙人を題材にしたSFは飽きた」という評が真だとしたら、「三体」はあれほど売れただろうか?
もちろんこのような評が出るのは巧拙の問題もある。王道展開だけど書き口が良くてぐいぐい読まされてしまうという経験はだれしもしたことがあるものだ。うまい書き手であれば陳腐な内容でも面白く書けるだろうし、あらすじの段階でもにじみ出る面白さがあるかもしれない。
けれども長く機能不全家族に関して書いてきたからこそ、私は知っている。家族の不和が提示された瞬間、一定数の人間がそれ以上理解することを拒む。
不和を見た瞬間に「ああまたこれか」と思ってななめ読みをしていないだろうか。「これはつまらないものだ」と思い込んでしまっていないだろうか。女性差別に対してそうであったように、ハラスメントに対してそうであったように、「どこにでもあるつまらない話をことさらに喚いている」という態度を、あなたはとっていないだろうか?

私が機能不全家族についてWebで書き始めたのは2007年ごろだが、おおよそほとんどが批判的な反応だった。子供の甘えだ、親にも事情がある、完璧な親などいない、愛情の裏返しだと何度言われたかわからない。そんなことは当事者は何百万回も自身に言い聞かせている。それでもしんどさがあふれ、やはり家族が変なのではないかと疑問をもってようやく機能不全家族だということを受け入れるのに、彼らはさも私たちを幼子のように諭すのだ。しかし同じ口で彼らは言う。理不尽な上司がいる職場からは逃げればいい。モラルハラスメントをする人間からは距離を置け。メンヘラを見たら即刻逃げろ。同じことが家庭内で行われた時だけ、彼らは家族の名のもとに思考を停止する。その理由がわからなかった。

時が経ち、2020年代になると「親ガチャ」という言葉が生まれるまでになった。家庭という幻想は消えつつある。もちろん今でも2000年代と同じような批判をする人々は残っている。機能不全家族もののエッセイなどに「理解のある彼君()」「いつもの展開」というようなコメントがつくのは毎度おなじみだ。

一方でうつ病や発達障害などのエッセイや創作に対してはどうだろうか。病気というものはたいてい同じ経過をたどるので展開も似ているはずなのだが、機能不全家族、とくに母娘の不和について書かれたものに比べると圧倒的に「いつもの」というコメントはつきにくいように感じる。理解のある彼女だって出てくるが「理解のある彼女さん()」とコメントがついているのを見たことはない(もしかするとあるかもしれないが)。

根底には二つの問題が横たわっている。

ひとつは、家庭に対する幻想である。特に家庭運営の軽視は深刻である。
もうひとつは女性差別である。

「バックファイア」には「理解がありそうで全然理解がなく、しかも役に立たない彼くん」なら出てくる。役に立たないので、母と娘の対立は解決されない。そもそもの問題として母と娘はすでに対立していない。なぜなら母はすべてを忘れているからだ。それでも娘は寛解できない。現実であればその苦しい状況は数十年続く。時が感情を風化してくれるのを待つほかない。
しかしSF要素が持ち込まれることによって、彼女はようやく無限ループから抜け出せる。それも彼女自身の力で。

すべての物体は、外部から力を加えられない限り、静止している物体は静止状態を続け、運動している物体は等速直線運動を続ける。

ニュートンの運動の第 1 法則

人間は物理である。したがって心も物理法則にしたがうのだと私は思う。
ひとりきりで内省していても、心の問題は解決できない。だから現実には「理解のある存在」との邂逅をきっかけに道を切り開くしかない。偶然を頼っているうちに私たちは死に至る。
でも、SFなら?

私は自然科学を愛し、テックを愛し、SFを愛して生きてきた。SFの装置なら人生のきっかけを作ってくれると、SFが私たちを自立させてくれると信じている。「バックファイア」はそんな願いを込めて書いた。そして幸いにも思っていたほどは酷評はされず、優秀賞をもらうことができた。

もしあなたが今、脱出口を探してさまよっているのなら、「バックファイア」を試してほしい。眠れない夜の底で待っています。



「眠れぬ夜のバックファイア」(「バックファイア」より改題)は2022/6/20発売の短編集「ギークに銃はいらない」(破滅派)に収録されています。Amazonほか書店にて予約受付中です。
ほかにナードたちのささやかな抵抗を描く表題作「ギークに銃はいらない」、森林限界の辺縁に住む閉鎖的な村で生きる人々を描いた連作「春を負う」「冬を牽く」を収録。いずれも機能不全家族の物語です。

また文学フリマ東京(5/29)に先行販売が行われます。一足早く読みたいという方はぜひお越しください。なんかノベルティももらえるらしいです(Amazonで予約したと伝えていただければお渡しするそうです)。

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