キラカードを探している
小学校から走って帰ってくると、ランドセルを放り投げて駄菓子屋へと自転車をこいだ。
近くの駄菓子屋には、学校終わりの小学生の子どもたちがいつも集まっている。
10円だの20円だの30円の駄菓子で腹を満たして(50円は贅沢)、そこから晩ごはんまで、子どもたちは散り散りとなって遊び倒す。
駄菓子屋はその拠点のような場所だ。
月々のお小遣いのすべてを駄菓子に使うわけではない。
たまには、ミニ四駆やガンプラも買うし、くじをひいたり、よくわからない安い玩具を買ってみたりもする(ポンプを押すとぴょこんと跳ぶかえるの玩具とか)。
その中でも一時期、駄菓子屋にいくたびにお小遣いをつぎ込んでいたものがある。
カード引きだ。
カード引きとは、カードが封入された袋がおよそ30組ほどの束になったものだ。
馴染みのある方も多いのではないだろうか。
一袋20円(確かそれくらいだった気がする)で販売されていて、購入するときには購入希望分のお金をおばちゃんに支払ってから、その分の袋をカード束からひきちぎって手に入れる。
ぼくら世代では、圧倒的にドラゴンボールのカード引きが人気だった。
大体、カード束の台紙の表面には、キラカード(キラキラのカード・ホログラム加工)がはりついていて、その束をすべて買いきったものがラストワン賞として、そのキラカードも手に入れられるという仕組みになっていた。
なので、子供たちの間で自然と心理戦が働く。
カード束をおろしたての場合は、30袋の束の中からキラカードを運で引き当てなければならない。引きの強さがものをいう。
残り5袋くらいなら100円を払って、ラストワン賞ごといただくという具合だ。もちろん、台紙のキラカードをすでに持っている子どもは一旦、見送って、おばちゃんが補充する次のカード束を待つ。駆け引きがそこにはあった。
だから、常にカード引きの束の残数は駄菓子屋にいくごとにチェックしていた。
払った分よりも多く引くという不正を働く子どももいたし、資金力を見せつけて束買いをする裕福な子どももいた。
そこには光と影の世界があった。
所有するカードこそ子どものステータス。
そんな時代だった。
ぼくのようなお小遣いの少ないやつは、友達の自慢するキラカードのコレクションが、それはそれは心底うらやましかった。
そんなカード引き、たまにこんなカードが混じっていた。
一見は普通のノーマルカード。
なんだけど、実はそのノーマルカードの角を、慎重にめくってみると、その下にキラカードが隠れているというもの。
隠しキラカードだ。
ノーマルの悟空と見せかけて、下には超サイヤ人3の悟空のキラカードが隠れているといったような演出のものだ。
キラカード同様、いや、その心くすぐる仕様も手伝って、自分で引き当てたときには鼻息荒く、かなり興奮したのを覚えている。
そもそも、なぜこんな昔の話をしたのか。
それは、最近、なんとなく自分の創作のアイデアや閃きってどこからくるんだろう?と考えたときがあった。
その時に、自分はキラカードを探しているようなものかもな、と思った。
もはや「は?」っという話だ。
もちろん、本当のカード引きのキラカードを探しているという意味ではない。
これはこういうものです。
のような固定観念、思い込み、先入観(もっと他の表現もたくさんあるけど)がノーマルカードだとするなら、その端っこを「本当に?」とめくってみたくなる。
その下に何か隠れているんじゃないかと。
それは、真実を追求するとか、誰かを言い負かすとか、そういうこととは少し違う。
その下に「あぁ、○○だと思っていたけど、こういう一面もあるんだ」という、再発見的なキラキラを見つけたいというイメージが近いかもしれない。
隣の住人や、すれ違う町の人、流れてくるニュース、はるか遠いどこかの国の事件の、表面的なカードの端っこをめくってみる。
もしかしたら、そこには目に見えている絵柄だけではない、新たな一面や不思議な世界が隠れているかもしれないから。
そこには、めくり手によって違う絵柄が広がっているはずだ。
自分ならば、ショートショートを中心に書いているので、そこには日常を入口とした非現実的なファンタジーな視点も多く含まれるだろう。
なので、目の前のノーマルカードがパッとしなかったとしても、その下にある何かを想像するとワクワクしてくる。
めくられるときを待っているキラカードを探すように、今日も生きて、創作に活かしていきたい。
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