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偶然の中の必然、雨と花火-打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?-

初めて隅田川の花火大会に行った。
これまで、いつも混んでいるだろうと思って敬遠していたのだが、予想通りだった。
たった一晩で95万人が浅草に押しかけるらしい。

夕方5時過ぎには浅草に着いた。
花火が上がるまで、2時間ほど夕涼みがてら座って待った。

私は、子供の頃から花火が好きだ。
花火には、特別な思い出がある。


岩井俊二の試み的作品、「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」。
それは少女時代の本質だと思う。
それは、好奇心と、センチメントの本質だと思う。

そんな、夏の思い出の話。

あれは高1の夏休みだ。午後2時ごろ、電話が鳴った。
中学の同級生からだった。

「今日、雨降らへんよな?」
ガラス窓越しに見上げた空には少しの薄い雲がたなびいていたけれど、それは平和な夏の午後で、雨は到底降りそうになかった。
「なんで?大丈夫。降らへんよ」
「そうやんな。降らへんよな。・・・下手な先読みなんか、しても無駄やんな」
「先読みって、何を先読むのん?」
「・・・何かなあ。次、起こること」

雨を先読みするだなんて、妙な言い方をするものだ。
私はとにかく、今日に限って雨なんて降らないと信じていた。
今日は晴れびやかな日と決めこんでいたから。
私達は待ち合わせの場所と時間を確かめ、「じゃあ後で」と言って受話器を置いた。

その日は、年に一度の地元の夏祭りの日だった。
中3だった昨年の私達は、夜空一面に咲いた花火の下で、これから先ずっと、この夏祭りには一緒に来ようねと約束した。
その夏は、中学を卒業してほんの数ケ月のときのこと。
高校は別々だったけれど、まだまだ私達は一番の仲良しだった。

私達は中学のころ、同じ男の子を好きになった。
背が高くて、はにかみやで、絵が得意な彼を私達は大好きだった。
それは本当にほのかな可愛い恋で、裏切りも嫉妬もほとんど存在しなかった。
ただ何となく好きで、ただ何となく嬉しくて、ただ何となく切ない、とても小さな恋だった。

だけど、彼女を裏切ったことも、本当はある。
彼とも彼女とも違う、電車で小1時間の高校に入って間もない頃、私は彼女には内緒で彼に手紙を書いた。
好きとこそ書かなくても、私は幾分期待してその返事を待った。
彼は当たり障りのない返事をくれて、何度か休みの日に二人で会った。

いつも私から誘って、彼はただ友達としてそれに付き合ってくれた。
会っているだけで私は単純に嬉しかったけど、二人の関係はかつての同級生というままだった。
私が彼を好きなこと、彼は知っていたはずだけれど、私と会っても彼の心はいつだって別の場所にあった。
私はそれがこの4月に始まった私の知らない新しい生活の中で芽生えたものだと勝手に思い込んで、「もう、だめかな」と思い始めていた。
中間テストの期間、会わなかったらそのうちに、私にも自分の新しい生活の中で初めての恋人ができて、ありがちにそのまま、彼は遠い恋の記憶になった。

私と彼女の友情は事も無げに続いた。
それぞれの生活に、互いの知らない部分が増えてきて、もしかしたら彼女にとって私が一番の仲良しではなくなったかもしれないけど、私の中では彼女は依然一番の仲良しだった。
私達はずっと一番の仲良しでいられると私は決め込んでいた。

私達の生まれた町は程よく小さくて、それほど不便でもないけれど、平和でのんびりとした町だ。
これといった特徴はない町だけれど、年に一度、市の主催する夏祭りがある。
市立の陸上競技場にささやかな屋台が出たり、盆踊り、カラオケ大会だとか市民の芸能発表会だとか、いかにも地方都市にありそうな催し物があって、最後、夜には花火大会がある。

ほんの小さい頃から父や母に連れられて、よく花火を見物しにいった。
華やかで、豪快で、ドォンという重い音が心臓に響いて、そしてはらはらと夜闇の彼方に消えてゆく。
小学校1年生の夏休みの絵日記の最後のページに、私ははっとするような言葉でその様子を表している。
「先生あのね」で始まって「火が火の子を生んで、ひらひらとまいおりたよ」で終わるその日記。
私は花火に強く魅せられていた。その力強さよりも、はかなさにこそ余計に。

けれど、その夏、私達のもとに舞い降りたのは火の子供ではなかった。
それは無情な夏の雨で、しかも舞い降りたなんて生優しいものじゃなく、容赦のない土砂降りだった。

その雨は午後4時過ぎに突然に降り出した。
冷たくて、手のひらですくってもすくいきることなんてできなかった。

私が物心ついて以来初めて、夏祭りは中止になった。
当然、花火は咲かなかった。

台無しになったのはお祭りだけじゃない。
いとも簡単に約束は崩れ落ちた。大事に抱いていた手のひらの中で。

「ずっと」といった約束は一度でも破られたらもう、永遠性を損なって、その核心を失う。

雨が、夏の雨が壊した。
私達の永遠のための約束は無残にも壊されて、それは「ときどき」の約束へと変形を遂げた。

お祭りや花火。
友人の大半がこの町の人間より別の街の人間になっていく中で、この町に何らかの拠り所をと求めていたものが、手のひらをするりと抜けて振り返ることもなしにどこかへ行ってしまった。
私はそのとき、そんな風に感じていた。

そして二週間ばかり経ったある日の夕方、再び彼女から電話があった。
何ということのない会話がしばらく続いたが、心持ち、その声には高飛び込みに臨むような緊張があった気もする。
何か伝えるべきことがあるんだろう。その日の私は冷静だった。

「ねえ、まだあの子のこと好きなん?」
「え?別に。なんで?」
「うちな、あの子と・・・」

彼と付き合うことになったと彼女は言った。
あの日、あの雨で台無しになった夏祭りの日に、彼からとても久しぶりの電話があって、一緒に花火を見にいこうと誘われたのだと。
彼女はすぐに返事できなかった。私との約束があったから。
彼女は5時までに返事すると言ってひとまず電話を切り、そして・・・。

雨が降った。それでもう、彼女は返事に悩む必要から解けたのだ。

思えばあのとき、彼女はまだ何か言いたがっていたような気がする。
「先読みしても無駄やね」なんて、あんな不自然な言い方をして、何かを私に伝えようとしていたのかもしれない。

雨が降らないという先読みも、雨が降るという先読みも全く無駄だった。
待ち伏せたように雨は降ったから。

それは彼女のために降ったわけじゃない。
雨はただ偶然だった。
そして他愛もない偶然は、私達の関係を変形させた。
偶然の分際で、突然に。偶然故に、不意撃ちに。

けれど、約束を壊し、私達の関係を変形させたものが、まさにその土砂降りであって、私達自身の手ではなかったことは、どれほどに幸運であったろうか。
そのとき私は、あの激しく憎らしい雨の優しさを知った。

別に彼女を恨んだりしなかった。特に憎む理由はないだろうと思う。
私は彼のこと、もう思い出程度にしか思っていなかったし、彼女が私を裏切ったとも思わない。
もしも裏切りだとすれば、彼女が去年の夏、彼のことをもう思い出にしたと言ったことや、夏祭りの日の電話でその迷いを告白しなかったことだろう。そのいじらしさをこそ私は責めよう。
でも、そんなのじゃなくて、私達がもう、今まで通りでなくなったとしたら、それは、互いにとってそういう時期が来たという、それだけのことだ。
先の読めない未来へ闇雲にでも飛び込む時期が来たという。

雨は壊した。
だけど、そこにはかけらが残った。
いつまでも先に進めない私を戒めながら、懐にそっと忍ばせて行けるように壊してかけらにしてくれた。
ともすれば破片一つ残さなかったかもしれない決定的な選択を避けて。

私は泡色の夏を見上げた。
終わりかけたこの夏は幻のようで、私の存在、私達の若さも泡のような色に見えた。
雲海の中をじゃぶじゃぶと行く。土砂降りは抵抗を許さない。

そうして、私達を優しく守り、感情をカモフラージュして、電話口でささやいた。
物事はあるべきところへ行き着くのだと。
やり過ごすにしくべき偶然がちゃんと、用意されていることに驚きながら。

花火は角度や場所によって、見え方は違うのかどうか、小さい頃は大した疑問だった。
私はその夏、東京の大学を受験することに決めた。

新しい街で私はどんな花火が見られるんだろうと、そのとき心は遥か未来へ向かっていた。


打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?(1995年・日)
監督:岩井俊二
出演:山崎裕太、奥菜恵、反田孝幸、他

■2004/8/9投稿の記事
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