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モーフィアスとの遭遇-マトリックス-

午後3時、クライアント先での打ち合わせを終えて、タクシーを拾う。
赤坂まで。

皇居の周囲をぐるりと回り、公園の緑、10月の空を愛でていく。
今日も素晴らしい天気。

タクシーの運転手さんが言う。

「太陽っていうのはすごいよね。
うちらにはただの青い空にしか見えないけど、ほんとはそこには星があるんだよ。
だけど、太陽の光があるってだけで、それが全部見えなくなっちまう」
「そうですねえ」

太陽がどちらの方向にあるかまで確認しなかったけど、確かに太陽の光は、全方位的に世界を照らしている。
私の目に、そこにあるはずの星は見えない。

「イチローっていうのもすごいよね。何十年ぶりの記録を塗り替えようっていうんだろ?あいつは見送りのストライクや空振りなんかほとんどしない。確実に打つんだ」
「ほんとに、そうですねえ」

太陽のすごさとイチローのすごさを同じ会話の流れで語る、このおじさん、なかなか粋なセンス。

でも運転手さんはいいことを言った。
「太陽の光のせいで、あるはずの星が見えない」
それは、逆に言えば、私たちはそこに星などないと思って生きている、ということだ。
見えないものはそこにないと思っている。

もう10年近く前、ニュージーランドでホームステイをした時、ステイ先のお母さんが言っていた。
「天使が本当にいるかどうか、見えないからいないっていうのは違うわ。見えないものを信じる気持ちが大事なの」
私はキリスト教徒でもないので、天使が本当にいるかどうかなんて考えたことがないし、積極的にいると信じようとは思わないけれど、かといって絶対にいないかどうかは言い切ることができない。
あらゆることにおいてそうで、私たちが「こうだ」と信じているものを覆し続けたのが科学史のはずだから。

「現実を疑え」

そこから始まるのがSFX大作「マトリックス」。
私はあの作品が、かなり好きだ。

現実を疑う想像は、幼い頃は日常茶飯事のゲームだった。
今でも、何にもすることがないときは、こっそりそんなゲームを楽しんでいる。

「もしかしたら私以外の人間すべてが役者で、人生は壮大な芝居かもしれない」

「もしかしたら今この瞬間に世界はスタートしたのであって、これまでの記憶はさっき人工的に植えつけられたものかもしれない」

「もしかしたら人生は1本のビデオテープで何度も再生を繰り返しているだけかもしれない」

「もしかしたら、これは、すべて夢かもしれない」

・・・もしかしたら。

「マトリックス」の世界を想像だと言い切ることは誰にもできない。
今、私が発した言葉、私がついた吐息、私の瞳の瞬きも、どこかしら全知全能の存在によって計算されつくした、単なるプログラムの一つだったら。
そうではないと、誰か、言い切れるだろうか?

今、そうではないと発した言葉そのものが、誰かの意思だったら?

不思議なものだ。
そんな想像に答えはない。
答えがない水たまりに、ちゃぷちゃぷと遊んでみよう。

感覚的なイメージを映像と音楽とストーリーで紡ぐのが、映画。
「マトリックス」は、考え方次第で、世の中こんなにクレイジーでファニー、と言っている。
でも人間、そんなでたらめな世界でクレイジーでファニーで、ちょっとかわいいよね、と言っている。

「だからね、あの子が虹の根元の宝を探そうって言ったとき、私たちは本当に車で虹を追ったのよ。どこまでも、ずっと遠くまで」
オークランドのハーバーブリッジを車で渡りながら聴いたホストマザーの言葉が青い空に溶けていくようだったのが、はるばるとよみがえる。
なんとなく天使さえ、見える気がした。

不思議の国のアリスを思い出した。
こんなのどかな昼下がりに、アリスが迷い込んだwonderland。
彼女は白うさぎを追いかけて、後のこと先のことなど考えず、夢中でうさぎの穴に飛びこんだ。

こんなイメージを呼び起こした運転手さん、あなたは白うさぎ、いやいや、モーフィアスかもしれない。


マトリックス Matrix(1999年・米)
監督:アンディ・ウォシャウスキー 、ラリー・ウォシャウスキー
出演:キアヌ・リーヴス、ローレンス・フィッシュバーン、キャリー・アン・モス他

■2004/10/2投稿の記事
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