再会と意識の夜-脳と仮想-
新宿南口のGAPの前で待っていた。
雨が止んで、また降り出しそうな、微妙な宵の口だった。
丸の内線が事故か故障で動かないからと、彼は二駅分、歩いてくると言う。
新宿御苑に住んでいるらしい。
待っている相手は、中学の同級生だ。
1年と3年は同じクラスだった気がするが、2年はどうだっただろう。
3年間ずっと同じクラスの人が一人だけいたと認識していたが、ひょっとすると、彼がその人かもしれない。
まじめで勉強のできる男の子だったが、最大のアイコンは、学年唯一の「医者の息子」だということ。
田舎の公立中学なので、開業医の息子なんて、学年に一人いればいい。
地元の人なら誰でも知っている、内科医院の次男坊で、みんな勝手に、彼は将来医者になるだろうと踏んでいた。
そして、次男坊は、期待通りに医者になった。
今は、東京の病院に勤めている。
私が彼に会うのは、19歳の夏、大阪以来で、当時の彼は医大を目指す浪人生だった。
あのとき「本当は、医者になりたいのかどうか分からない」と言っていたのを思い出す。
14年も経って、なぜ東京で再会することになったかと言えば、互いの母親が、地域の主婦連中の団体旅行で、偶然顔を合わせたからだ。
娘は東京なんですよ、あら、うちの息子も今東京で。
よくよく話を聞いてみれば、お互い新宿区に住んでいて家も近い、その上、まだ独身ときている。
母親たちの思惑が一致して、本人たちへは事後報告というかたちで連絡先が交換された。
そして、私は新宿南口のGAPの前で、かつてのクラスメイトを待っている。
果たして顔が分かるだろうか。
そんな心配は無用だった。
「遅れてごめん」
彼の方から、声をかけてきた。
ああ、確かに、こんな顔だった。
記憶の延長線上で自然に大人になった、30代の男性が立っていた。
「私のこと、すぐ分かった?」
「うん、分かったよ」
難がない。
14年ぽっち会わなくても、クラスメイトというのは難がないのだ。
彼は、精神科医になっていた。
内科も外科もやったらしいが、現在は精神科で、特に小児専門らしい。
政情不安のグルジアという国で、一年間、野戦医療に携わった経験もあるのだそうで、彼は随分と逞しい立派な医師になっていた。
「中3の卒業文集で、E君が将来何科のお医者さんになるかっていうアンケートをとったの憶えてる?」
「なに、それ?」
「憶えてないの?」
「ぜんぜん」
「そう。なんやと思う?」
「え?なんやろう?」
「すごい中学生らしい答えやで。他にありえへん」
「なになに?」
「産婦人科」
「あー」
そんなこと、よく憶えてるねと彼は言った。
私、記憶力には自信があるの。
「そやけど、精神科やったね」
「そうやね」
3年1組の皆さん、答えは、精神科です。
彼がよくランチをするという、公園近くの小さなビストロで食事をした。
ここで休日の午後、彼は静かに読書をするのだと言う。
思い出話や、14年の経緯を埋める話は、そんなにしなかった。
精神医学の専門家を前にして、私には訊いてみたいことがたくさんあった。
たとえば、鬱と鬱以外との間に明確な境はあるのか。
不安になったり自分を責めたり、被害意識が強くなったり、気分が著しく落ち込んだり、誰にでもそういうことはあるものだ。
私だって、年に何度かは、そういう状態になることがある。
あるいは、少々特徴的な感覚をもつ人。
綺麗好きにも程度があるし、疑り深いにも限度がある。
それが個性なのか病気なのかの判断は、どこでなされるのか。
何が正常で、何が異常なのか。
自ら精神科を訪れる患者には、どんな人が多いのか。
自分は精神科に行く必要があると自覚できるくらいの人であれば、本来、精神科に行く必要はあるのか。
果たして、精神の異常は自覚できるものなのか。
確かに、疾患と呼べる、明確な脳の変化が起きている場合もある。
薬を飲むことで治癒できるものも多い。
一方、だとすれば、薬が人の心や思考をコントールできる事実をもって、今ここにある自己とは何なのかにぶちあたる。
所詮、人というのは、ある種の装置。システム。
そうなのに、今、我思う、故に我あり。
主観と客観。
意識と無意識。
それが、ほんとうに不思議で、気が遠くなりながら、どうやらそのあたりに神様が棲んでいそうな気がして、また手を伸ばす。
触れてみたい、触れてみたいと手を伸ばす。
1年半ほど前に、偶然本屋で手に取った茂木健一郎氏の著書「脳と仮想」は、衝撃的に面白かった。
ここ数年で読んだ全ての書物の中で、最も面白かったし、最も人に薦めたい。
本書は、脳科学という小難しい話題を、実に分かりやすく、そして見事に詩的な文章で繰り広げている。
そこで迫ろうとしているものは、まさに人間の「意識」の正体だ。
そこに何かがあるとないの違いはなにか。
脳が勝手にあると判断しているだけで、本当にあるのかないのかなんて、分からない。
所詮すべては脳内の仮想にすぎない。
薬を与えれば、楽しい気持ちにもなるし、哀しい気持ちにもなる。
幻を見せることもできるし、催眠にかけることもできる。
薬によって与えられた楽しいと、友だちと遊んで感じた楽しいには、本質的な違いはなく、楽しい感情は楽しい感情であって、脳内で起こっていることは同じなのだ。
分かるような分からないような感じに、思考はぐるぐると回るけれど、結論は今のところ出ていない。
ただ、人は脳という完結した装置の中で一生を送り、そうであるから、絶対的に孤独なのだと、私はずっと思っている。
けれど同時に、その孤独の淵で、人は仮想をコントロールする術をもつ。
そんな話を、14年ぶりの再会の話題にした。
どんな切り口で私が思いつきをぶつけても、頭の良い友人は、小気味よく打ち返し、話がずっと途切れなかった。
彼は少し緊張していたのかな。
ワインを1杯ずつ頼んだだけで、グラスが空いても、2杯めを注文しなかった。
意図してじゃなくて、ただそんなことに思いつかないという風だった。
私は気がついたけれど、なんとなく、そのままにするほうがいいような気がして、私も2杯めを勧めなかった。
そうして、お酒に酔っ払うこともなく、どちらかといえば、フロイトやユングやデカルトの海に酔っ払う夜だった。
脳と仮想(2004年・日)
著:茂木健一郎
出版:新潮社
■2009/2/2投稿の記事
昔のブログの記事を少しずつお引越ししてきます