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女の本質-オール・アバウト・マイ・マザー-

「女は偉大よ。女は寛大だもの。どんなものでも受け入れる」
「いいえ違うわ。女は愚かよ。孤独を避けるためだったら何だってする」

身ごもった女と息子を亡くした女のやりとりだ。
正確な台詞は覚えていない。
しかしこの言葉、えぐられるような真実があった。

寛大さと、愚かさの裏表をこうも鋭く言い当てられて、たじろいでしまった。
なぜなら、それは私のことだと思ったから。

「オール・アバウト・マイ・マザー」。
この映画を観たのは、私が愚かの極みに陥っていた、25か26のときだった。
そう、孤独を避けるためだったら、何だってした。
あの頃は、自尊心といったものが欠落していたとしか思えない。
寛大に人を受け入れているように見えて、それは自分の孤独を埋めるための懸命で醜い「あがき」だったように思える。

では、今はどうか。

聖書は、女の二面性をマリアという名の二人の女性で描いた。
聖母マリアとマグダラのマリア。
聖女と娼婦が同じ名前を持つ。
ただひたすらにイエスを愛し、愛されたふたり。

この前、女友達が私の前で泣いた。
ほんの少し涙を見せただけだけれど、日曜の午後に、太陽が照る下で彼女は泣いた。

「なぜ私、こだわってしまうのだろう。あの人を好きなのか、ただ一人になるのが耐えられないだけなのか、分からないの」
「それはどちらでもあって、どちらでもないのよ。人を愛するというのは、どこからスタートしても、何が理由であっても、今心にあるものだけが全てだからね。そんなことで自分を否定してはだめ」
「どうして私、こんななんだろう。こんな思いをしなきゃいけないほど・・・」
「自分は愛される価値もない人間なんだろうか、って思っちゃうのよね。幸せになる価値もない人間なんだろうか、って思っちゃうのよね。みんなが当たり前のように手に入れる幸せが、自分にはとても遠くて、どうしてこんな簡単なこともできないんだろう、自分には何か決定的な何かが足りないんじゃないか、って。そう思っちゃうのよね」
「そうなの。そうなのよ」
「私もおんなじ。おんなじだよ」

そうして彼女に、この映画の話をした。

彼女はとてもかわいいし、頭のいい子だ。
優しくて明るく、がんばりやだ。
キップが良くて、いい女だ。

抱きしめてあげたくなったけど、そっと腕をまわすくらいにしておいた。
私は知ってる。
女の子に抱きしめられると、もっと不安になること。

女の子の体は、本当に細くて、小さくて、男性とは全然違う。
女の子に抱きしめられると、逆に自分の小ささを思い知ってしまう。
自分が求めているものをかえって強く知ってしまう。
だから、女が女を抱きしめるのは、ふたりともが幸福なときだけにしなければいけない。

母親でさえ、そうだ。
お母さん、こんなに小さかったの?と子供の頃には知らなかったことを知る。
この人も、女だ。

「オール・アバウト・マイ・マザー」。
母もまた女だ。

世の中には、知らなくてもいいこともある。と私は思う。
経験しなければ、この世にそんなものがあると知らなければ、それで一生幸せに生きていけるのに、ということがある。
何でも経験しているとか、何でも知っているというのは、その分、勘ぐらなくてもいい人の心とか、見えなくてもいい未来とか、そういったものにずっと無言に攻撃されながら生きるということだ。

心理テストをしたら、
「何があったか知りませんがあなたは相当スレています。純粋さを持ちましょう」
と診断された。
精神年齢は実際より15も上だった。
既製品のテストにまで言い当てられるなんて、まったくもってうなだれる。
純粋さを持ちましょうと言ったって、そうそう簡単なわけがない。

対比の中で、人は求めるようになる。
それが孤独を呼んでいく。

愛への感受性は強まるばかりで、同時に孤独への感受性も強まるばかり。
悪循環によって女は構成されている。

女は聖母ばかりでもなく、娼婦ばかりでもない。
そのどちらかに分類されるわけでもない。

いい女たちはよく笑い、いい女たちはよく泣く。
これほどに人生を、世界を、自分自身を愛していることに打ち震える。

この映画の中では、いい女たちは眩しいほどに情熱的に輝き、バルセロナの夜がそれを癒す。


オール・アバウト・マイ・マザー All About My Mother(1999年・スペイン)
監督:ペドロ・アルモドバル
出演:セシリア・ロス、マリサ・パレデス、ペネロペ・クルス他

■2004/8/17投稿の記事
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