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記憶のつづれ織り☆橋と幼稚園

 昭和37年の春から一年間だけ幼稚園に通った。
宿の通り(しゅくのとおり…旧東海道をそう呼んでいた)を渡った文房具屋の脇を入った路地の奥、左にL字で曲がる角地に、私が通った荻野幼稚園はあった。
当時住んでいた目黒川の東側にある長屋から、どこを通って幼稚園まで歩いて行ったのか定かではないが、おそらく母親に手をつながれて目黒川に架かる橋を渡り、聖蹟公園を抜けて行ったのだろう。
そう、橋は確か土台部分を除いて木で出来ているような造作で、たしか近所にふたつあったような気がする。
一つは聖蹟公園のほうに渡る少ししっかりした橋。
もう一つは我が家に一番近く、川を渡るとそのまま陣屋横丁に続いていた細い橋。
自動車が通って大丈夫な構造ではなく、埋め立て地の住人たちが生活のために行き来する用途で架けられた橋である(多分)。
 
 今の目黒川は地図に表されるように、中目黒~目黒~五反田〜大崎を流れ、荏原神社の先で東京湾河口に到達する。
だが、60年程前までは旧東海道を過ぎた辺りで漁師町の弁天様(利田神社)に向かって北上する支流が存在していた。
支流は私が小学生の時にすっぽりと埋め立てられ、立派なバス通りとなった。
それが現在の八ツ山通りであるが、以前はなぎさ通りと名付けられていた気がする。知らんけど。
支流は、弁天様にある鯨塚に接する一角だけ「品川浦船溜り」として残っており、今でも地元の船が係留されている。昔は、父の漁船もベカ船もそこにぷかりと浮かんでいた。
隣は今でも○○さんちの船着き場。屋形船で有名な〇○○丸ね。
漁師であった父は、私が中学生の時分に陸に上がってしまったが、その後もしばらくの間、船を所有していた。
その船には私自身も少なからず思い出があるので、別の機会に書くことにする。

 さて、五歳児(時)の私に戻ると、幼稚園での楽しい出来事は何だったのだろうか。
クレヨンでのお絵描き、折り紙、夏のプール(ほとんど行水レベル)、遠足で行った潮干狩り、動物園、お遊戯会(学芸会みたいなやつね)、小学校の校庭を借りて行った運動会。
人生で初めて経験する団体行動、同級生や目上の方との接し方など、社会というものの基礎を学んだ。
今思えば、とても濃密な一年間であったと思う。
そりゃそうだよな、全部が生まれて初めての経験なのだから。
そうそう、字を読み書きする習慣を始めたのもこの時期だった。
母が私に本を読むことの楽しさを教えてくれたのも、幼稚園時代だと思う。
サトウハチローの「おかあさん」という詩集をプレゼントしてくれたのを思い出す。
ハードカバー三部が収まる箱に入った装丁だったから、そこそこ値段がしたはず。
まあ、何故お母さんってタイトルの本を?とあとで思ったけど(笑)
そのうち古本屋で探してみるか。

 幼稚園での私は、あまり活発な子ではなかった。
あとで母から聞いた話では、昼休みにみんなが外で遊ぶ中、「ぼくはいいや」と言って絵をかいたりしていた(らしい)。
現代では死語の「引っ込み思案」な印象を受ける陰キャに思われるだろうけれど、運動神経は悪くなかった。
走るのは速かったし、雲梯や、手と足を使って垂直にのぼる鉄棒(名称不明)も得意だった。
砂場での相撲も強いほうだった。
いずれも友達に誘われれば一緒に遊んだが、夢中になるほど好きではなかったような気がする。
それより、ゼロ戦や鉄人28号の絵を描いているほうが好きなガキだった。
ひとことで言えば、大人から見てあまり可愛げのある子じゃなかったってこと。
ま、本人はあまり憶えてないのだからどっちでもいいか(笑)
などと遠い記憶を紐解きながら、当時のモノクロ写真に思いをはせている67歳最初の一日でした。

あ〜、でもいつか、夢の中で古びた木の橋を再び渡る自分がいるのだろうな…

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