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キラキラ✨ひかる 045_20240402

適当さは自分にしか理解できない

私は若い時、結構几帳面だったと思う。
今のように面倒臭がりでもなかった。

だからか、いろんな人からいろんなことを任された。
「まめだね~」
というのが周囲の評価、自分もそれでいいと思っていた。

がある時(というか、なんとなく夫に出会ってからだと自分では思っているのだが)、それはとても非効率で自分の時間をただ売りしているのだということに気がついた。

今まで自分の長所だと思っていたところが短所だったということに気づいた瞬間だった。

そしてそれからは「適当」というものの考え方に居心地よさを感じ、だんだん物臭になっていったように思う。

夫のことを決して恨んではいない。
ただ・・・夫と結婚していなければ、私は実家の母親にそっくりの「マメマメ人間」になっていただろうと思う。

面白いことに正月に食べるお節の中で黒豆は苦手な部類に入っていたのだが、マメさが失われてしまった昨今は黒豆が食べたいお節の上位にあがってきている。

マメさを失った現在の私が良かったと思うことを一つあげるとすれば、「他人のやることが気にならなくなった」ということだろうか。

自分がマメに働いていたときは、適当な人がどうしても許せなかった。
なんでもうちょっと早めに動いてくれないんだ。
ここはもうちょっと丁寧にやってほしい。
この人とはもう一緒に仕事をしたくない。
あげれば次から次に出てくる不満。

あの頃に比べると私は人に寛容になったのかもしれない。

自分が適当になった分、相手に求めることがなくなった。

だけど、どうだろう・・・?

相手は私のこの適当さをどう思っているだろうか?

私自身、いまだに几帳面な人は好きである。
適当な人を許せるようになったが、適当な人が決して好きなわけではない。

「あー適当にやっておきますから~」
そう言われて安心する人がどこにいるだろうか。

適当でも十分に仕事こなせます、というアピールなのかもしれない。
でも、やっぱり心配になる。
人から「適当にやります」と言われるのはあまり好きではないかもしれない。

人に安心感を与えるのはやっぱりキッチリとした人なのかもしれない。

中にはそのキッチリ感が他人に緊張感や威圧感を与える場合もあるかもしれない。
結局、相手との相性ということか?

昨日、これから借りる地域の施設の見学をした。
案内してくれた人が「あなたはキッチリしてそうなので、安心です」と私に言ったので、人のイメージって大事だなぁと思った次第である。

私はだいぶん適当な人間になってしまったが、場面に応じてキッチリもできる要素をまだ備えているようで安心した(笑)

これまで自分が物臭なのをいいことに、「適当というのはちょうどいい塩梅である=バランスがとれている」という風にいい意味で使ってきたのだが、やっぱり手を抜く適当さは他人に対してはあまりいい風には映らないのではないかと身が引き締まる思いで始まった年度初めだった。

<1年前の”ほのぼの日記”> 
ネズミが苦手だという話。いやタイヤ交換をしたという記録だ(笑)
昔はゴキブリが一番嫌いだったが、ここは寒い地域なのでもう10年以上ゴキブリに対面したことがない。その代わり、ネズミが大の苦手である。


タイトル画像は、はそやmさんの作品です。「キラキラ✨ひかる」シリーズのために、ボルダリングをするうぉんのすけ、子ども支援をするうぉんのすけをイメージして、オリジナルのものを提供してくださいました。はそやmさん、本当にありがとうございます💗


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