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【掌編】鏡迫

〈だってさ、知らなかったんだ〉と鏡のなかの僕は言った。〈イチゴが苦手だなんて。てっきり僕は、女の子なら誰でもイチゴが好きだと思ってたんだよ。高を括ってたんだね。まったく油断した。もっとちゃんと調べておけばよかったよ〉
 彼は悔しそうに、でも幸福そうに顔を歪めた。カップにそそいだコーヒーをすすり、小皿に盛ったマシュマロをひとつつまんで口に放り入れた。香ばしい湯気がこちらの鼻先まで届いた。
〈女の子は謎めいてるねえ。ま、それがいいんだけどね〉
「君はいつも楽しそうだね」僕は鼻で息をついて言った。「彼女を嫌な目に合わせちゃったんだろ? だったらもうちょっと後悔してもよさそうなものじゃないか」
〈いやいや、君はわかってないな〉彼は人差し指を立て、口をもぐもぐさせながらたしなめた。〈たまに女の子を不快な目に合わせるのがいいんじゃないか。それが意図的にせよ偶然にせよね。もちろん、性的な嫌がらせは駄目さ。淫らでだらしなくて、瞬間的な快楽に終始しちまうようなほんとに迷惑なやつはね。そうじゃなくて、僕が言ってるのは、世界に彩りを添える嫌がらせさ。女の子も僕も、それによってまんざらでもない……そうだな、楽しい迷路に迷い込んじまったような気分になる、そういう不快さを求めてるんだよ。僕だけじゃない。ほかの男たちもみんなさ〉
「気分転換に?」と僕は訊いた。
 彼はむすっとして首を横に振った。
〈そんな軽快なものじゃないよ。なんていうかさ、もっとおかしくしてほしいんだよ。世の中の人みんな、どっかでおかしくなってほしいと思ってるんだ。世界が、自分が、出来事が。もういっそのこと、変な方向へずれ込んでほしいと思ってるんだよ。ほんのすこしのあいだだけね。そのくせ自分が一番正気でいたいと思ってるんだ〉
 僕は腕を組んでちょっとのあいだ考えた。
「なんかあれだね、自分が正気の世界で異常になってしまいたいのか、異常な世界で正気でいたいのか、もうわからないね」
 彼は今度は嬉々としてうなずいた。僕も彼に合わせて顔を動かした。
〈そうそう。そのどっちもだな。なにせ一番最悪なのは、異常な世界で異常でいることだからね。だから僕も、彼女にイチゴを食べさせることができてよかったよ〉
「案外彼女も、奥底のほうでは喜んでるのかも」
〈まあわからないけどね。本当に嫌がられた可能性もある。女の子は謎めいているからね〉
「違いないね」
 鏡のなかの僕はマシュマロをひとつつまんでこちらに差し出してくれた。ぬっと境界を越えて伸ばされた腕の先にあるその白いお菓子を、僕はぱくりと咥えた。噛んでもなんだかあまり味がしなかった。
〈ところで、君も気をつけたほうがいいよ〉
「僕?」
〈君を見てるとかわいそうになってくるよ〉
「かわいそう?」
〈うん。そんな妙ちきりんなところにいてさ。君こそそのまま異常になっちまうかもよ〉
「? なに言ってるんだ? 異常?」
〈だって、そんな鏡のなかなんかにいてさ〉
 僕は自分の手のひらを見た。グーパーした。手相がなかった。
〈はやいとこ抜け出すことだね。あるいは、ちゃんとそこで“正気”をやっていくんだ〉
 彼はまたひとつマシュマロを口に放り入れた。膨らんだりへこんだりする頬がにこやかに持ち上がっていた。
 謎? と僕は胸で唱え、首をかしげた。


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