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インク溜まりの悪あがき

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45分

マーマレードができた。
鍋の中でつややかに光る。
かけていた火を消して、
隣に置いた鍋に水と、
瓶を入れて火にかける。

瓶を先に煮沸して、冷やして、
さめたところに、
できたてのジャムを入れて、
それでわたしは、
瓶を割ったことがある。

ガラスの瓶はそのとき、
切ない小さな悲鳴をあげた。

そのことを思い出すと、
わたしは決まって、
何年か前にわたしの一番だった男を、
思い出してしまう。

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38分

口を縛った茶漉しの中に、
オレンジのタネと、
白い甘皮を入れたもの。

鍋の中では、
それがすこしずつ、
なにかよくわからないけれど
オレンジをマーマレードにするものを、
ぐつぐつという音に合わせて出している。

生産性。

わたしの大嫌いな言葉。

わたしは何も生み出せない。
わたしは何も作れない。
こうして見ている鍋の中、
ぶつぶつと飴のようなマーマレード。
それだって、
わたしより上等な命の

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22分

22分

こまごました作業。
ぶつぶつと沸き立つ鍋の中から、
踊るオレンジの皮とつぶを避けて、
浮いてくるアクを取り続ける。

わたしはこの作業がいっとう好き。

じっと鍋の前に立って、
じっと鍋の中を見つめて、
じわりと滲んだシミのようなアクを、
ひたすら何度も掬い上げる。

たぶん、
ひとが死ぬのもこういうことだろう。

神様は人間が「アク」になると、
鍋の中から取り除く。

でも、だとしたら。
神様、

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14分

神様は人間に「こころ」を与えた。
それも適当に、目分量で。

満足にもらえなかった、
けれど確かに在ってしまうそれは、
人間の行動のおおよそを決める。

鍋の中にぶちまけた粉砂糖。
今回は甘くなりすぎてしまうかも。

こころが無ければ、人間は簡単だった。
倫理も理念も何もかも、
人間をむつかしくしているのはぜんぶ、
こころなんて名前をした経験則。

こころが無ければ、人生は簡単だった。
相互理解な

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12分

まるまま生き残り、
まな板の上でころりと呑気な、
オレンジの果肉を手に取った。

ころり、ころり、と乾いた鍋に。
ヘラでつぶしながら、
水の湧いてくるのを待つ。

人間の70パーセントは水分だという。
ジャムにするには少し足りない。
きっと神様は気に入らなかった。

ジャムにしたって美味しくない。
どうやったって食べられない。
誰にも好かれず、
残骸なんて捨てるしかない。

きっとその程度のつもり

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5分後

オレンジの皮には農薬がついている。
煮沸消毒も十分だろうと、踊る皮をザルにあけて、触れる程度に冷ます。
きっとこの過程は、人間の死ぬのと同じだろう。

人間は何度も失敗し、
その度に死に、
そして生き直しているのだろう。

であれば、
前回の生の記憶、
その失敗の記録を保持していてもよさそうなものだ。
けれど実際はそうでない。

煮えている間に溶け出てしまうんだ。

オレンジの皮がしんなりと湯気を

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2分後

実験を繰り返し生きていく。
きっとこの社会は失敗作だ。

手に余るオレンジを剥くように、
きっと人間には、
生きることは手に余る。

「人を殺してはいけません」

幼い頃繰り返し聞いた言葉がきっと、
崩壊の抑止力の試作品だった。

ぼこぼこと沸き立つ鍋の水。
刻んだオレンジの皮が踊る。
#小説

マーマレードとアルデバラン

オレンジの皮を剥く。
酸の香りが鼻をつく。
わたしのてのひらの数倍に育ったオレンジは、きっとわたしより生きていた。

オレンジの皮を剥く。
わたしはそれを消費する。

自分よりもずっと上等な生き方をした、
立派な果実を消費する。
#小説