【第6回】昭和天皇の人生

初めまして、こんにちは。

早稲田大学社会科学部三年の艮(うしとら)と申します。他の記事にもあるかと思いますが、国策研究会では十月までを第二新歓期と名付け、記事の執筆に精を出しているようです。少し他人行儀な言い方だという印象を受けるかもしれませんが、実を言うと私が国策研究会に入ってから二週間程度しか経っていないのです。ですから自己紹介を少しさせていただこうと思います。世の状況も状況で国策の会員で直接会ったことのある人は一人も居りませんで、これをしておかないと都合が悪いということですから、何かのご縁と諦め、読んでいただけると幸いです。

自己紹介

さて、実のことを申しますと、私が日本のことに興味を持ち始めたのは今から丁度一年半前、大学二年生の時でした。

大学一年の頃は受験勉強の延長のようなもので、英語学習に精を出していました。ある時、英語が出来ても話すことが無いではないかという事に気が付きまして、「語学バカ(語学だけできて中身のスッカラカンな人間)」ではいけないという考えに至りました。しかし、大学で終始怠けてのらくらしていたので専門と言えるものもなく、自ずと情報源はインターネットになり、色々詮索していくうちに断片的な知識は得ることができました。この辺りのことは長くなるので端折りますが、ある日私はコテンパンに論破され、これを勉強しなさいと地政学の本を勧められました。

私は世界史で受験をしましたので、地政学というのはすんなりと入っていき、マッキンダーをはじめとし、地政学の大家の本を読み進めていきました。確かな古典を読むこと、また教養を身につけることの重要性を身にしみて感じました。吉田松陰先生曰く、「俗流輿議難」。これは簡単にいうと、世俗の意見に流されてはならぬということですが、大変便宜ではあるがその中でも玉石混合の激しいネット上の情報の石、つまり俗流だけを掴んでいたことを実感しました。そこからは哲学、歴史など特にジャンルを決めずに古典や専門書を読んでいきました。ただどうしても一人では手に入らない情報も出てくるし、他の人の意見はどうなのだろうと思ったところ、何かの機に、早稲田に保守系の公認サークルがあることを知り、入会を決めたという流れになります。

記事執筆までの経緯

楽屋話を少ししますと、入会して初めての副幹事長とのオンラインの会話で新歓記事を書いてみないかということを提案されました。しかし記事といっても何について書けば好いか少しも検討がつかなかったのですが、私の本棚には昭和天皇に関する本が少なからずあり、偶然それをみたので昭和天皇について書くということを提案されました。誤解をさせてしまっては不可せんので判然と申し上げておきますと、私は高貴な生まれでも何でもないし、今回はプロロングド・プロローグのようなものでとても御満足のいくような学究めいた話は出来かねますから、その積りで御辛抱を願います。

記憶が定かではないのですが、私が初めて昭和天皇のお姿を拝見したのは大体十歳くらいの頃でした。勿論私は平成生まれですから、曽祖父の家にあった御真影を見た事になります。その後大学二年まで昭和天皇について興味を持つことはありませんでしたが、半年前ぐらいに高祖父が昭和天皇から勲章を賜っていたという事実を知り、深く興味を抱くようになりました。

明治

昭和天皇は明治三十四年四月二十九日月曜日午後十時十分、東京都赤坂区青山の東宮御所内御産所で皇太子嘉仁(よしひと)親王の第一男子として御誕生になります。当時の首相は立憲政友会の伊藤博文でした。身長五十一センチ、体重約三千グラムの赤子の父は明治天皇の第三皇子として明治十二年八月三十一日に御誕生。母の御名は節子で明治十七年六月二十五日に公爵九条道孝第四女子として御誕生なさり、明治三十三年五月十日に結婚の礼を挙げられました。この二人の式が神道式であったことから神前結婚式が民間に広まったのは有名な話です。御誕生第七日にあたる五月五日に御命名式が執り行われ、天皇より御名を裕仁(ひろひと)、御称号を迪宮(みちのみや)と賜ります。

その後、生まれた子を里子に出すというしきたりにより、命名の儀の二ヶ月後、七月七日に麻布にあった枢密顧問官伯爵川村純義邸に移転なさいました。明治三十五年には第二男子である淳宮雍仁(あつのみや やすひと)親王、同三十八年には第三男子である光宮宣仁(てるのみや のぶひと)親王が御誕生になり、それぞれ命名の儀の後、川村邸で裕仁親王と御同居をしています。その後、同四十一年に学習院初等学科に通学なさり、晴天の日は原則として徒歩で往復なさいました。幼少の頃は相撲と歴史がお好きだったようです。

大正


明治四十五年七月三十日に持病であった糖尿病の悪化と尿毒症の併発により五十九歳で明治天皇が崩御され、嘉仁皇太子が践祚、大正天皇となり、大正時代が始まります、大正天皇の即位礼の前年である大正三年、東京高輪の東宮御所内に東宮御学問所(おがくもんじょ)という学校ができました。これは皇太子裕仁親王に帝王教育を施すために作られた機関で、生徒は六人、大正十年三月まで学友たちと学ばれました。皇太子殿下は大正七年に久邇宮良子(くにのみや ながこ)女王との御婚約を発表されるも、結婚式をお挙げになったのは大正十三年のことでした。その間に殿下はヨーロッパ見学や関東大震災を経験なさいました。大正十年十一月二十五日には摂政になられていたので、震災後は馬に乗られ、最も被害の甚大であった上野公園や日本橋のあたりをご視察されました。これはヨーロッパ見学の際にイギリス国王ジョージ5世から学んだ、お濠の外側に目を向けるという態度の実践でもありました。

昭和


大正十五年十二月二十五日、葉山御用邸付属邸で大正天皇が崩御され、裕仁皇太子は践祚、昭和天皇となります。ここから詳しい話をするとなると導入すらも終わりませんから、今後機会があれば書こうと思っております。しかし少なくともこのことだけは頭に入れておいていただきたいのですが、それは昭和を通して天皇は憲法の条規によって縛られていた立憲君主であったということです。帝国憲法を通し、日本国憲法を通し、昭和天皇は専制君主ではありませんでした。無論、独裁者でもありませんでした。そして戦後に占領軍や学者たちはこぞって日本的価値観の歪曲に努めましたが、昭和五十年、昭和天皇は「広い視点から見るならば、戦前と戦後の(価値観の)変化があるとは思っていません」と仰っております。

戦後


戦後間も無く昭和天皇は戦禍にさらされた日本で御巡幸を始められ、昭和二十一年二月十九日の神奈川県川崎市から同二十九年八月の北海道まで度々全国を巡られました。延べ百六十五日、合計で三万三千キロの旅でありました。御巡幸の先々では人々が天皇に頭を下げ、ハンカチで涙を拭っていました。写真を抱いた婦人たちは天皇にお辞儀をしながら写真に写る人の顔を撫でている。その人とは戦死した夫や息子たち英霊の顔である。
「なぜ彼女らはエンペラーを責めないのか」
同行した外国人らはそう思ったそうである。無論、彼らには到底理解の及ばないところである。日本人には日本人の哲学がある。天皇はヒットラーやムッソリーニ、ルーズヴェルトなどとは違うのだ。首相や大統領は掃いて捨てるほどいるし、外国の君主の中には自分の国以外からやってきた者さえいる。しかし昭和天皇は言語に絶する惨状を日本国民とともに歩んでくださった。これは余人を以って代えられない。この天皇と国民の共存体制が日本の国家体制、つまり国体である。そして今でも日本は天皇が治す地(しらすくに)である。

「国体は護持された」

昭和天皇はその後昭和六十二年頃から体調を崩されるようになり、手術後、正月の参賀に御出席ができるようになるまで回復しました。しかし、同六十四年一月五日早朝より血圧が急激に低下し、一月七日午前六時三十三分に崩御されました。昭和は最も長く使用された元号となりました。昭和天皇の御陵は高尾駅から歩いて少し経ったところにある武蔵陵墓地にあり、敷地内の武蔵野陵に埋葬されています。同墓地内には大正天皇、貞明皇后、香淳皇后陵もあります。

最後に


最後に私の想いを、文字数が逼っていますから成る可く単簡に説明いたします。

私は国体を守りたいと思っています。先ほど書いたように国体とは天皇と日本国民の紐帯のことであり、どちらかが欠けたら日本国体は崩壊する。それを防ぐためには思想がいる。行動も必要だが思想なき行動は国会前でプラカードを掲げて絶叫し、やっている感を出しているのと変わらない。私は保守の真髄は温故知新の態度であると思う。これは単に伝統に固執するだけではないし、何も考えず新しいものに飛びつくだけということでもない。温故知新とは両者の中庸であるから、それを追求していきたい。

さて、余り長くなりすぎるとよろしくないのでこれで御免を蒙ります。草いきれというかコンクリートいきれの暑さの中ですが、ここまでお読みいただき感謝いたします。申し訳程度の記事ではありますが、ご寛恕いただきたい次第であります。

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