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364 喜の章(16) 4月23日から26日

53日目:2020年4月23日(木)
全国の感染者数 439人
十海県の感染者数  1人

 起きた彼女が部屋着に着替えたのを見計って、換気のための窓開け。思わず、寒い、という言葉が出るほど冷えた空気。

 今日は「用事」は無いの?
「全部キャンセル」
 コロナ?
「うん。『ご主人様と一日過ごせる』って喜んでくれるのは自由だけど、キャンキャン鳴くのはご勘弁だよ」と言ってクククと笑う彼女。
 心得ております。

 昼食をすませた2時過ぎ、彼女が窓を開ける。朝方曇っていた空は晴れた。けれど気温は相変わらず上がらない。
「冷えるから、今夜は温かいおでんにしよう」
 鼻歌で「そうしよう」を繰り返しながら、襟にフェイクファーの付いた腰丈の冬用のコートを部屋着の上に直接羽織ると、彼女はスーパーに買い出しに行った。

 3時頃に戻ってきた彼女。
 買ってきたのは、2人前セットのおでんのパック。だしに浸かった大根、玉子、こんにゃく、ごぼう巻、ちくわ、昆布、しらたきが2つずつ。セットとは別に厚揚げ、さつま揚げ、追加のちくわとこんにゃく。そして小ぶりの大根が1本。
 エプロンをすると調理開始。
 まずはお米を研ぎ始める。最初にすすいだ水をシンクに流すと、次から研ぎ汁をお鍋に注ぐ。研ぎ終わったお米は炊飯器にセット。
 次に大根。尻尾のほうから3分の2くらいを6つに輪切りして、皮を剥く。
「皮はお味噌汁に入れるから捨てないんだよ」
 お米の研ぎ汁が入ったお鍋に、輪切りの大根を並べて火にかける。
「こうやって下茹ですると、味が染みやすくなるんだ」
 振り向いた彼女がそう言う。
 お母様に習ったの?
「うん。中学生の頃は母親の仕事が休みの日に、妹と一緒に、お手伝いがてらいろいろ教えてもらった」

 大根の下茹での間に、追加の厚揚げとこんにゃくに包丁をいれる。15分くらいして、彼女は大根の茹で具合を竹串で確かめると、火を止めた。
 大きめのお鍋をシンクの下から取り出して、さっと水で流すとコンロにかける。下茹でした大根と厚揚げ、さつま揚げなどを並べ、その上からおでんセットを投入する。カップで水を加え、冷蔵庫から取り出しためんつゆを、味を確かめながら少しずつ入れる。
「OK」と言って、コンロに点火する。
 強火で煮立つと、弱火にしてしばらく煮込む。
「あとは煮えるのを待つだけだよ」

 ときどきチャンネルを変えながら、テレビを眺めて待つ。30分ほどした頃に彼女が立ち上がってコンロに向かう。お鍋の蓋をとって、匙で煮汁をすくい味見する。
「うん、大丈夫。しばらく寝かしたら...」
 そう言う彼女の背後に近付き、その腰のあたりに腕を回し、ボクはエプロン姿の彼女にぴったりと身をつける。
「こら。ご主人様のお許しなしに...」
 構わずにボクは、両手を彼女の胸に持っていき、敏感な突起をちょうど人差し指と中指で挟むような格好で、膨らみに手のひらを密着させる。
「だめ。そんな...」
 恥じらうような、それでいて満更でもなさそうな口調で彼女が言う。
 2、3分くらいだろうか。黙ってそのままでいた。
「お願い。お鍋の火を止めるだけの時間をちょうだい」
 その言葉にボクは腕を解いた。彼女はつまみをひねってお鍋の下の火を落とす。
 ボクのほうを向いて顔を近づけると、彼女はボクの唇に唇を重ねた。侵入してくる彼女の舌。ボクも舌を前に出し、二つの舌が絡まる。
 どちらからともなく唇を離すと、彼女が言う。
「下茹では、これくらいでいいかな」

 昆布の利いたおいしそうな出汁の香りが部屋中に漂う。
 ボクは彼女を、お姫様抱っこでベッドへ運ぶ...

 ...2時間後、ボクたちは夕飯の食卓を囲んでいた。
 彼女はごぼう巻から、ボクはこんにゃくから食べ始めた。
「おでんが寝てる間に、自分たちまで寝ちゃったね」
 そう言うと彼女は、照れくさそうにクククと笑った。

54日目:2020年4月24日(金)
全国の感染者数 444人
十海県の感染者数  1人

 いつも通り、彼女は11時半頃にバイトから帰ってきた。
「外は結構冷んやりしてるよ」
 そういえば、朝の換気のときも震え上がった。

 昨日のおでんの残りと、彼女が買ってきたお惣菜で昼食。
 休業要請に応じない施設の名前を公表するかどうかが話題になっている。パチンコ店が槍玉に上がっているようだ。
「なんでパチンコなんだろうね」
 まあ3密の象徴みたいなところだからね。最初に緊急事態宣言が発令されたときも、対象外の県境の営業しているパチンコ店が大繁盛になるという問題があった。
「キミはパチンコはやるの?」
 しない。大学時代に一度だけ友達に連れられて行ったけれど、台の発する音で満ちた空間が堪えられなかった。
「わたしも一度だけ行ったよ。1000円札が1枚無くなるのに5分かからなかったので、恐くなってそれから行ってない」

 テーブルの上の食器をまとめて、台所に持って行こうと立ち上がったボクの腕を、彼女がやさしくつかむ。微妙な笑みを浮かべた彼女の顔を見下ろす形になる。
「ねえ...しようよ」
 彼女の手をそっと振りほどき、手にした洗い物をシンクに置くと、ボクは彼女のほうを見て言う。
 まだ、こんな時間だよ。
「昨日、あんな時間に誘ったのは、誰だっけ」
 あれは...キミのエプロン姿が...
「明日も朝早くからバイト。だから夜は早く寝たい」
 これは...ご主人様の命令?
「...女の子に、これ以上言わせる?」
 せつなく光る彼女の瞳に、吸い込まれそうになる。
 ボクがエスコートする形で、ベッドに向かう。

 小雨の中、日暮れ前に彼女がスーパーで買ってきた魚介類と野菜を、めんつゆを薄めた出汁で煮たお鍋にして食べる。
 立ち上る湯気の向こうの彼女の穏やかな顔。
激しく動きながらときどき不安な表情を浮かべた、さっきとは別人のよう。

 今夜も冷えてきた。

55日目:2020年4月25日(土)
全国の感染者数 371人
十海県の感染者数  1人

 公約通り大根の皮を刻んで入れた具沢山のお味噌汁を、彼女はバイトへ行く前に作ってくれていた。

 彼女が帰ってくる頃には、気温がかなり上がってきた。午後から夜にかけて、この季節らしい暖かさになるらしい。

 例によってコンビニ弁当のお昼ご飯。今日も「用事」は無し。食べ終わって彼女の淹れたコーヒーを飲むと、無言で目配せして、どちらからともなく立ち上がると、ベッドへ向かう。

 夕飯は、茹でたスパゲッティをフライパンでオリーブオイルに絡め、この前買ってきたテーブルガーリックを振りかけて、ドライパセリをあしらった「ペペロンチーノもどき」。
「今日はもう、ニンニク大丈夫だよね」
 彼女がクククと笑う。

56日目:2020年4月26日(日)
全国の感染者数 224人
十海県の感染者数  1人

 久しぶりに暖かい朝。トーストに目玉焼きとサラダの朝食を済ませると、お洗濯に取りかかる。ボクが先に洗濯機を回してベランダに干す。彼女は乾燥機まで回す。クリーニング店に行く彼女に、ボクのジャケットも取ってきてもらう。

 20分ほどで彼女は帰ってくる。
「今日は暖かくなりそうだよ」
 衣装を片付け部屋に掃除機をかけると、彼女はベッドの端に腰掛けて、定期購読しているファッション誌2誌に目を通す。バスルームから聞こえるアラーム音。乾燥のすんだ洗濯物を畳んで片付け、今度はちゃぶ台の前に座り込んで、パソコンで通販サイトを見る。
「服を選ぶときは、なんか大画面のほうが安心なんだ」
 しばらくサイトを見て回って、結局、今日は買物しなかったとのこと。
「やっぱり節約しなくちゃ、だからね」
 パソコンをシャットダウンすると、3DSを出してきてポケモンを始めた。

 プレイが一段落した頃を見計らって、ボクが口を開く。
 ねえ、Official髭男dismって知ってる? 随分と流行っているようだけど。
「ヒゲダンなら知ってるよ。そんなに聴かないけど」
 そうか、ヒゲダンっていうんだ。
「キミは、ひょっとして知らなかった?」
 うん、全然知らなかった。
「それって...マジ相当ヤバいと思う」

 しばらく音楽とは無縁なんだ。カノジョと別れてからかなあ。
「たしか4年前だよね、別れたの。ということは?」
 カノジョは西野カナが好きだった。EXILE系、あとセカオワとかかな。AKBは最盛期を過ぎていた。
「AKBか。キミはだれ推し?」
 まゆゆ。
「へえ。正統派アイドルじゃん」
 大学時代に、深夜ドラマのヒロインを演じてるのを見て好きになった。
「そっか。そのあたりでキミの音楽は止まっているんだ。いい機会だから、ヒゲダンとか最近のも聞いてみたら?」
 キミは?
「ストリーミングで適当に流している。最近はYOASOBIが勢いがあるみたい」

 ひとまずYouTubeでヒゲダンの音源をあたってみる。
 4月20日付のオリコン合算シングルトップ10入りしている3曲「I LOVE... 」「Pretender」「パラボラ」を聴いてみる。歌詞も曲もさすがにヒットするだけのことはある。高音域を歌いこなすボーカルもすごいと思う。
 多くの人の心をつかむ作品には、なんらかの意味があることは認める。そもそも音楽は、よほどひどい曲でなければ、何度も聴けばそれなりに好きになる。でも今のところ「ヒゲダン」を何度も聞く気にはなれないと思う。男声の高音をこれでもかというほど聴かせられると、食傷になりそうな気がする。
 ...まあそう言わずに、ぼちぼち他の曲も聴いてみようか。

 ついでに彼女の言っていたYOASOBIを聴く。「夜に駆ける」...ボカロじゃね?

<つづく>


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