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364 喜の章(21) 5月9日から10日

69日目:2020年5月9日(土)
全国の感染者数 108人
十海県の感染者数  0人

 そぼ降る雨の中を彼女はバイトに出かけた。

 昨夜、「よかった」と言ったときの満足気な微笑み。ゆったりとしたボクの動きに、長い時間をかけて昇りつめた彼女。もしもボクのケネクティが上達したのだとしたら、彼女の導きと言うべきだろう。

 コンビニ弁当の昼食を終えると、「少し横になるね」と言って彼女はベッドへ。特に用事があるわけでもないのに、3時きっかりに彼女は起きてくる。

 二人分のコーヒーを淹れると、昨日の話の続き。いよいよキャバクラへ。

「二十歳(はたち)の誕生日の翌日に、長者町のそのお店のオフィスへ、履歴書持って面接に行った。2日後に体験入店。指定されたサロンでヘアメイクしてもらって、衣装を貸してもらって、「綺麗」と書いて「きらら」と読ませる源氏名をもらって、わたしと同い年でナンバーワンキャストの麗奈(れな)さんのアシスト役でお店に出た。なにを聞かれたかも、どう受け答えしたかも思い出せない。きらびやかで、物凄いエネルギーというか熱量の中で、ただ夢のように時間が過ぎて、気がついたらタクシーチケットを握りしめて深夜のタクシーで家路についていた」

「体験入店の翌日の夕方に、お店のオフィスで再度面接。お店側は、二十歳で新人は決して若くないけれど、君がよければ、ということで条件の説明を受けた。日曜休みの週6日勤務。夜8時から原則深夜2時まで。時給制で基本は2000円。指名が入ったりするとポイントが加算されて、半月ごとに集計されたポイントに応じて時給が上がる。帰宅のタクシーチケットは支給されるけれど、5000円以上は自己負担。メイクと衣装も自己負担」

「是非お世話になりたいけれど、ガールズバーを辞めるのと、昼間のコンビニバイトのシフトを変更するのに、少し時間が欲しい。では、ひとまず二週間待つので、その間に先輩キャストに衣装とお化粧について教わるように、と言われて、呼ばれて入ってきた面倒見の良さそうなベテランキャストの愛衣(あい)さんを紹介された」

「コンビニのオーナーに正直に事情を話して、シフトを朝10時から午後2時の時間帯に短縮してもらえるようお願いした。ガールズバーはこういうのには慣れてるようで、お話ししたらすぐに終わりになった。コンビニのシフト変更の調整ができる間、夕方の時間に愛衣さんに付き合ってもらって、お化粧道具と衣装を揃えた。お化粧やネイルの実技訓練は開店前のお店のフロアで。愛衣さんは、キャストとしてのお給料と別に、わたしのような初心者のお世話役としての手当ももらっていたらしい。もちろんその分は、あとからわたしの給料から引かれたけどね。彼女に教わった接客の心得。キャバクラでは素人っぽさというか初々しさは大切だけど、プロとしての意識はしっかりと持つこと。あとは自分らしさをどうやって上手く表現するかだよ」

 そうか。結構難しい世界なんだね。

「予定通り、体験入店の二週間後に正式デビュー。作ってもらった「綺麗(きらら)」の名刺をポーチに入れて、最初はナンバーワンの麗奈さんや、トップ3のキャストの指名のお客さんへの接客に同席させてもらって、いろいろとお勉強。一週間経った頃に独り立ち。店内の中央にある待機席で、ヘルプのお声がかかるのを待つ。しばらくすると、フリーでご来店のお客様を担当するようになり、デビューから二週間経った頃に初めての場内指名をもらった」

 雨は一日中続いた。気温はそんなに低くない。

70日目:2020年5月10日(日)
全国の感染者数  66人
十海県の感染者数  0人

 今日も朝から雨。少し肌寒い。彼女も外出せず一日部屋で過ごすという。

「ずっと十海では感染者出てないよね」
 具沢山の味噌汁の朝食を食べながら、彼女が言う。
 そうだね。
「そろそろ緊急事態宣言、やめにしてくれないのかな」
 ボクもそう思うよ。

 夜のお店とか以外は、6日で休業要請は終わってるんだよね。
「うん。でもまだ、開いてるお店は少ないように思う」

 午前中は思い思いに過ごす。
 ボクのスマホに、なぜかネット競馬サイトの広告が表示されるようになった。所詮ボクには縁のない世界。

 玉子とタマネギだけのシンプルな炒飯の昼食。食後のコーヒーを飲みながら、彼女が昨日の続き。

「ええと、キャバ嬢デビューしたところまで話したよね。そのお店のキャストは、だいたい30人くらいだった。駆け出しのときは当然最下位。けれど、自分で言うのもなんだけど、あっという間にポイントを稼げるようになって、デビュー3ヶ月でトップ5に入った。もちろんLINEで営業活動をしたんだけれど、わたし目当てで来てくれるお客さんが増えて、本指名がどんどん入るようになるのは楽しかったよ。『同伴』って言って、お店の開店前に待ち合わせてお食事したりしてから一緒に入店するのも増えてきた。上映時間が合えぱ、映画を一緒に観てから入ることもあった。アニメの『君の名は』が大ヒットした頃は、同伴のご希望に応えて3回も観ることになったよ」

「『ルミ女ブランド』も活用したよ。高校は?『えーと....信じられないかもしれないけど、ルミ女だよ』えっ?ルミ女?本当に?『本当だよ』じゃあ、大学は?ルミ大?天大?『それはね、ひ・み・つ』...こんな感じで、結構喜んで貰えた。そういえば、キミにも同じように言ったことがあったね」

「キャバクラは、風俗ではないから性的なサービスはご法度。もちろん酔ったはずみのおさわり程度はいくらでもあるけど、それも『うまくいなして終わり』となる。けれど、キャバクラに来る男性の中のかなりの人は、心のどこかにキャストの女の子と恋愛関係に、そして『大人』の関係になりたい、っていう期待を持っているものなの。だから、お店の外で会おう、っていうお誘いも少なくなかった。2年間そのお店でキャストとして働いた間、同伴以外でお店の外で会ったのは、たしか10人くらいだったと思う。その中で、『大人』の関係になったのは3人」

 それって、多いほう? 少ないほう?
「わかんないなあ。同僚のキャストの子たちと、あまりそういう話、わたしはしなかった」
 さらに彼女か続ける。

「そのうちの一人、30代後半のナイスミドルが、いろいろと夜のお作法を教えてくれた。部屋に入ってからベッドインまでの立ち居振る舞い。恥じらいと欲望をブレンドした表情。手際よくゴムを装着する仕方も、その人に教えて貰ったんだよ。そして体位に応じた体の動かし方。終わったあとの振る舞い。もしキミがわたしのことを慣れてる、と思っているとしたら、その人のおかげだね。結局その人は、初めて指名をしてくれてから1年くらいして来店しなくなった。他のお店に流れたのか、別の事情があったのかわからない。そのまま会うこともなくなった」

「ナンバーワンの麗奈さんとは、同い年で仲良くなった。背格好が同じくらいだったので、衣装をくれたり、なかなか破れなかったトップ3の一角をわたしが占めたときは、お祝いのランチを奢ってくれた。急成長の綺麗(きらら)ちゃんのことを良くなく思ってる子もいて、いろいろ陰で言われたりシカトされるかもしれないけど、気にしないでね。私を抜くつもりで頑張ってね。あ、もしも綺麗ちゃんがナンバーワンになったら、私にご馳走するんだよ。そう言って麗奈さんは、本を3冊貸してくれた」

「貸してくれた本のうち2冊は、キャバ嬢の教科書みたいな本。残りの1冊は、わたしでも知っている有名な人の人生訓の本。読んでみると、まさに自己啓発の世界。キャバ嬢特有のノウハウはさておき、心構えは、例えばこんなの。相手に好かれるためには、相手を好きになることから始めましょう。自分の約束には厳格に、相手の約束には寛容に。貴女の笑顔は貴女を裏切りません。心がキレイな人は、言葉も表情も振る舞いもキレイになります...」

「キャバ嬢暮らしに違和感を持ち始めたのがこの頃から。若さが売りの世界だから、そんなに長く続けられるわけじゃない。それでも麗奈さんのように、学んで、自らを律して成功を掴んだ人がいる。そのことは素晴らしいことだし、彼女の頑張りを否定するつもりはない。けれど、常識から距離を置くために身を置いたはずのキャバ嬢の世界にも、成功のための『常識』がある。このまま頑張って、心構えを守って続ければ、ナンバーワンになれるかもしれない。けれど、それが何なんだろう。上手く説明できないけれど『なにか違う』という気持ちが湧いてきた」

 夜遅く、雷鳴が響くと雨音が強くなった。ボクの隣の彼女は、雷にも雨にも気付かずにスヤスヤと眠っている。

<つづく>


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