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364 喜の章(22) 5月11日から12日

71日目:2020年5月11日(月)
全国の感染者数  58人
十海県の感染者数  0人

 昨日の雨は早朝に上がったらしく、起きたときには晴れていた。
 ベランダに洗濯物を干した頃には、陽射しの中、気温が急上昇していた。風が強いので、衣類をしっかりと留める。

 彼女が起きたのは11時過ぎ。
「なにか食べた?」
 いや、洗濯してた。
「じゃあブランチ作るね」

 今日の玉子は、珍しくスクランブル。スライスしたトマトとキュウリに、千切ったレタスをあしらったサラダ。トーストはボクが用意する。

「なんか暑いね」
 開け放しの窓から、陽射しに熱せられた空気が風に乗って運ばれてくる。
 予報では30度超えるみたいだよ。
「まだ5月だからクーラーもなんだし。そうだ」
 そういうと彼女は、押入れを開けて少し奥のほうから箱を出してきた。扇風機の絵が描かれている。
「組み立て、お願いしてもいいかな」
 了解、と言って、ボクは箱の中から部品を取り出す。支柱の部分を横にした状態でガードと羽根を取り付けると、台座の窪みにスライドして装着。10分もかからないで完成。
 彼女がコンセントに電源コードを挿して、スイッチを入れると羽根が回り始める。
「あ~~~え~~~」
 彼女は羽根の正面で、「お約束」の「発声練習」。

 扇風機の首を回して、部屋中に空気の循環を起こすと、随分と暑さがしのぎ易くなる。
 洗濯を終えた彼女が淹れたコーヒーで一息つく。彼女が昨日の続きを始める。 

「えーと、麗奈さんに本を貸してもらった話までしたんだよね。ちょうどその頃に、軽いストーカー事件に巻き込まれた。週一回くらい来店して、わたしをいつも指名してくれる若い人。明らかに背伸びして来ているのがわかる。毎回手を握ってきて、店外で会いたいと言うんだ。悪い人ではなさそうなんだけれど、どうも危険な雰囲気なので、やんわりと断り続けた。そのうち、来店しない日でも入口で待ち伏せして、出勤するわたしをつかまえてデートを申し込むようになった。閉店後の帰り道で、どうも後をつけられている気がして、早足で駅前のタクシー乗り場に行って乗車すると、つけてくる車がないか、ずっと振り返って確かめてたこともあったよ」

「お店に言っても、キャストとお客の店外でのトラブルには不介入、が方針なので、何もしてくれない。そんなとき、週一で来店してわたしを指名してくれる40代の人が、いろいろと親身になって話を聞いてくれるので相談してみた。すると、同伴を装ってその人が一緒にお店に来て、待ち伏せしていた彼を連れてどこかに行った。その後、彼は来店しなくなって、わたしの前から完全に姿を消した。どうやって話をつけたのかは、わからない。手荒なことをするような感じの人ではなかったけどね。こんなこともあって、ますますキャバ嬢暮らしに違和感がつのったんだ」

 モチベーションの低下だね。

「そう。それでも成績はだいたいトップ5、調子の出ないときもトップ10はキープする位置につけていた。ストーカー退治をしてくれた人とは、『大人』の関係にはならなかったけれど、何度かお店の外で、お食事をご馳走になった。その人に正直な気持ちを話したら、いったんキャバは辞めたほうがいいね。夜の仕事なら、きちんとしているところを紹介するよ、まあ、稼ぎは下がるだろうけどそれでよければ、って言ってくれた。それがキャバ嬢2年目の2月の終わり頃」

「少し考えて、その人のご厚意に甘えることにした。決めた日の閉店後にオフィスに行って、辞めたいと伝えた。ライバル店の引き抜き? と言われたので、少し疲れたからキャバクラはやめにする、と答えた。戻りたくなったらまた来てね、という言葉に素直に感謝して、翌日を最終日で辞めることが決まった。いろいろ教えてくれた愛衣さんからは、なんとなくそんな気がしてたよ、最近、と言われた。麗奈さんは、うそ~、そんな、寂しくなるよ~、と言ったけれど、最後は、綺麗(きらら)ちゃんなら、どんなお仕事でも大丈夫、頑張って、と言って送り出してくれた」

「みんな、いまどうしてるかな、ってときどき思うよ。麗奈さんは、サイバー系の若い起業家にプロポーズされて、結婚した。努力の結果つかんだ玉の輿だね。コロナでもご主人のお仕事は順調なんだって。彼女がくれた衣装のうち、お気に入りのチャイナドレスは、いまでもそこ、衣装ハンガーにかかっている。愛衣さんは実は結婚してて、開業資金が貯まったのでご主人と洋食屋さんを十海で始めた。最近連絡してないけど、たぶん厳しいんだろうな。他の子たちとはほとんど連絡とってない。たまに連絡してくるのは、借金の申し込みばかり。前にも言ったけど全部断っている。お店ではさんざんシカトしたくせにしつこく言ってくる子は、ブロックしたよ」

72日目:2020年5月12日(火)
全国の感染者数  87人
十海県の感染者数  0人

 昨日の晩にダウンロードしたまま聴かないでいた、瑛人の「香水」を起きてすぐに聴く。サビのメロディー。耳に残る、というか取りついて離れない。キャッチ-ということなんだろうけれど、ボクにはあまり心地良く感じられない。
 上書きしたくて、King Gnuを聴いてみる。「白日」。これ、なんかいい。ヒゲダンよりも好きになるかもしれない。プレイリストをダウンロードする。

 相変わらず競馬サイトの広告が表示される。なぜだかわからない。

「紹介してもらったお店は長者町の一角、最初に勤めたガールズバーの近くにあった。キャバクラを辞めた翌日に、面接に行ったよ。ボックス席が4つとカウンター6席のこじんまりしたお店。もう働くことが前提になっていて、水・金・土の週3日、開店1時間前に出勤して準備を手伝って着替えして、水曜は8時、金曜と土曜は7時開店。天歌行きの最終電車に間に合うように、基本は11時で上がることにして、どうしても抜けられないときは、タクシーチケットを貰えることになった。お給料は、キャバクラの基本時給と同じ額で固定。ポイント制とかはないけれど、お店が繁盛したときにはボーナスが出る」

 レトルトのカレーで昼食の後、彼女の話が続く。

「オーナーであるママは、50歳くらいの小柄でポッチヤリした、愛くるしさと気品を兼ね備えた女性。キャバクラとは客層が違ってVIPのお客様が多い。身なりも接客も全然変えなきゃいけないから、そのつもりで。衣装は最初は一緒に行って選んであげるので、雰囲気をつかんだら自分で買い揃えるように。お化粧は、くれぐれもケバくならないように。普段外出するときより少し濃い目くらい。ネイルはマニキュアまで。アクセサリーも落ち着いたものを。トークは、慣れるまでは無理しないこと。相槌を打つだけでいい。それとあなたの場合、茶髪もいいいけど黒髪のほうが似合うと思う」

「初出勤は水曜日。ママが選んでくれた衣装に、髪は黒染めをして行ったよ。8時開店から30分くらいしたときに、その日最初のお客さんとして、この店を紹介してくれた人が来た。常連さんで、ママともチーママともタメ口を交わす仲。初日なので様子を見に来た、とのこと。なかなか堂に入っているね。君ならちゃんとやっていけそうだ。ほんと、のぞみちゃんはすぐに看板娘になりそうね、とママ。わたしがご紹介くださったお礼を言うと、今度飲み仲間を連れてくるよ、と仰った」

「家を出てから、夜の世界で働いてきたけれど、つくづくわたしは、いい人たちとの出会いに恵まれたと思う」
 しみじみと彼女はそう言う。
「ガールズバーも理解のあるお店だったし、キャバクラではイヤミ言ったりシカトする人たちがいたけれど、しっかり味方になってくれる人がいた」
 そのようだね。
「ストーカー事件のときもそう。そして、キャバ嬢がつらくなったタイミングで、いいお店に紹介して貰えた」
 彼女はさらに続ける。

「そして次の出会いが、わかるよね。そう、『紳士』。夏が過ぎて秋が深まりつつあったころ。麗奈さんのチャイナドレスを試しに持って行って、OKを貰ってお店に着て出た水曜日。お店を紹介してくれた人が、4人グループで来店した。うち3人は常連さん。初めて来店したのが彼だったの。テーブルについたわたしに、お世話になります、よろしくお願いします、ってすっごく丁寧なご挨拶をされた。最初のうちは4人とわたしで会話をしていたんだけれど、その日は空いていてチーママがご接待に加わると、彼とわたしと二人で話すようになった」

「とにかく話題が豊富な人で話していて楽しかった。キミも知ってのとおり、大会社の創業一族で重役さんっていう、すごいご身分の人なんだけど。話をしている間はそんなこと全然感じさせない、気さくな感じの人。その後も水曜日を狙って、ご来店するようになった。一人で来られたときは、カウンター席で二人きりで話をすることもあった。『でも、お家の方針で社長になれないのって、悔しくないですか?』。そうだね。そんなふうに感じたときもあったけれど、専務取締役という今のポジションが自分には似合っていると思っている。一族でなくてもトップになれるんだ、ということが、働いている人たちのモチベーションになれば、会社にとってそんなにいいことはない」

 本当に「できた人」なんだね。
「そう、そうなんだよ」

 朝方は晴れていたが、午後から曇り。昨日ほどの暑さではないけれど、夏日の一日。扇風機が活躍した。

<つづく>


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