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364 喜の章(4) 3月12日から17日
11日目:2020年3月12日(木)
全国の感染者数 55人
十海県の感染者数 1人
...目覚める。時計を見る。やばい、8時半だ。遅刻だ...次の瞬間、ホッとする。ネカフェで迎える朝。12日目になった。
勤めていた会社の勤務時間は、朝9時から昼休憩1時間を挟んで夕6時まで。月から金の週5日勤務。
ボクはだいたい月に10時間、時間外をつけていた、というか、毎月「10時間」だった。担当業務によって、月間の時間外勤務の「上限ガイドライン」があって、ボクの担当は「上限10時間」だった。もちろん黙示的なもので、入社して最初に実際の勤務時間で申請したら、上司に、困るよこれは、と言われて初めて知った。
それからボクは、毎月ぴったり「10時間」をつけるようになった。もちろん実際の残業が10時間を下回ることは、一度もなかった。辞める前の2年間は、休日出勤も含めると毎月100時間以上時間外勤務をしていた。
12日目:2020年3月13日(金)
全国の感染者数 34人
十海県の感染者数 0人
昨日、また1人十海(とおみ)県で感染者が確認されたらしい。これで3人目。
城址図書館で1日を過ごす。新型インフルエンザ特措法改正案が本日可決成立らしい。条文に目を通してみる。かつて法律の専門家になるべく勉強していたのに、しばらく離れていると思うように理解できない。緊急事態宣言発令の際の手続きの問題や憲法が保障する自由と権利の制限の問題など、いろいろと法的な論点はあるみたいだが...結局法律には興味を持てなかったということだろう。宣言が出ると、いろいろと不便になりそうなことはわかった。
13日目:2020年3月14日(土)
全国の感染者数 62人
十海県の感染者数 0人
冷たい雨の中、図書館へ行く。コロナ感染予防対策で、催し物が週明けから中止になるらしい。このまま感染が広がると、閲覧コーナーの利用も制限されるようになるのだろうか。
そういえば今日は土曜日だ。会社のオフィスは閑散としているだろう。出勤しているとすれば、ボクのようにうまく立ち回ることのできない奴。
土曜出勤といえば「究極の選択」があった。金曜徹夜して終わらせて、土曜を休むか。それとも金曜は帰って、土曜に出てきて終わらすか。カノジョがいた入社1年目は、徹夜して終わらせて、仮眠をとってからデートに行くことがよくあった。夕食を一緒にしながら、コックリ、コックリ...とくるボクに、カノジョは愛想をつかしたのかもしれない。別れた2年目以降は、土曜に出勤することが多くなった。
14日目:2020年3月15日(日)
全国の感染者数 29人
十海県の感染者数 0人
今日からしばらく晴れが続くらしい。曜日の感覚が狂ってきた。図書館が「5時閉館」で日曜であることを認識する。
彼女、狩野希(かのう・のぞみ)さんは、どうしているだろう。今日もお仕事だろうか。お休みだろうか。友達とショッピングとか? カレシは? さすがにいないんじゃないかな。いればボクの住民票を移すのを許したりしてくれないだろう。いや、あれだけの美人だから...
15日目:2020年3月16日(月)
全国の感染者数 16人
十海県の感染者数 0人
朝からドラッグストアを回って「マスク巡礼」をする。成果なし。街中の人通りがさらに減ってきたように思う。歩いている人たちが、みんなボクのようにマスクを求めて回っているように思えてくる。
神奈川県の施設で障害者19人を殺害した被告に死刑判決。
16日目:2020年3月17日(火)
全国の感染者数 45人
十海県の感染者数 0人
朝一番からコインランドリーで洗濯の間に、コンビニで買ってきたサンドウィッチの朝食。その後図書館に行き、読むでもない本を前にぼんやりしていると、11時頃にLINEのメッセージ着信。
彼女だ!
「たぶんDMだと思うけど、また届いてるよ。渡そうか?」
念のため確認したいから、受け取りに行くよ。
「よかったら今夜、十海でお食事しない?」
いいけど、なんで十海?
「うん。午後に用事が入ってるんだ。十海はいや?」
いや、大丈夫。
「じゃあ、午後6時に、中央改札の前で」
着替えが増えて荷物も相当大きくなっている。これまで2回彼女に会ったときと同じように、天歌(あまうた)駅のコインロッカーにカバンを預けて、財布とスマホだけもって身軽になる。
5時過ぎに改札を通り、毎日乗っていた電車で十海駅に向かう。待ち合わせには20分ほど早く着いてしまった。
彼女は約束の5分前に到着。ドレッシーな装い。
「待った?」
いや、そんなに。
「じゃあ、いざ出陣、といきますか」
彼女がボクを連れて行ったのは、駅ビルの中のオムライスの店。特大サイズで有名なところだ。
「今日こそ絶対完食するのだ!」
出陣、とはそういうことだったんだ。
彼女はプレーン、ボクはデミソースを注文する。
「じゃあ、これ。渡すね」とカバンから彼女が封筒を3つ取り出す。
ありがとう、と言って受け取る。見ないで捨ててしまえるDMだった。
ところで午後の用事はお仕事?
「そうねえ。仕事っちゃあ仕事かな?」
どんな仕事なの? あ、差し支えなければでいいけれど。
「まあ、サービス業ってことで、今日のところは許しといて。それより、キミの仕事のこと教えてくれなきゃ。わたしがいなきゃ、失業保険にありつけなかったでしょ」
会社の封筒で社名は見たよね。
「十海産業株式会社っていったら、十海県では大手だよね」
そう。売上で5本の指に入る。
「どんな仕事やってたの?」
国際本部で輸出入の仕事をやっていた。
「へええ。世界を股にかける国際ビジネスマンだったんだ」
そんないいものじゃないよ。海外出張なんて夢のまた夢で。面倒な貿易手続きの書類に追い回されたり、メールでハードネゴさせられたり、トラブルの後始末やったり。
「でも海外相手だと、時差で遅くまで残業したりとかあったの?」
本来のボクの担当はアジア地域だったから、時差の影響はあまりなかった。
「じゃあ、あまり残業もなかったとか」
貰っていたのは月10時間分の残業代...
注文の品がやってくる。記憶に違わぬ特大サイズ。
「おお。敵に不足はないぞ。いただきま~す」と言うと彼女は、ケチャップがかかったプレーンのオムライスに俄然取り掛かった。
ボクも、おもむろにデミソースのオムライスを食べ始めた。
「海外相手のお仕事だと、英語も堪能なんだよね。それともアジアだから中国語?」
もっぱら英語だったよ。
「かっこいいなあ。英語でネゴ...なんだっけ」
ネゴシエーション。そんなにいいもんじゃないよ。それに英語ができるのも考えものだった。
「いいことばかりじゃないの?」
うん。難度の高い手間のかかる案件や、トラブった案件の尻ぬぐいとかさせられた。
「そうか。でも残業が月10時間なら、環境としては悪くないんじゃない」
それは「貰えていたのが月10時間分」ということで、実際にはとてつもなく長時間働いていた。
「どれくらい?」
最後のほうは、休日出勤も含めると月100時間以上。
「じゃあ、サービス残業ってやつ? そんなの許されるの?」
労基署にでも駆け込めば...でもそんな勇気はなかった。
しばらく黙って特大のオムライスをやっつける。半分を過ぎたあたりで彼女のペースが落ちてきた。
「ぬかったなあ。午後にケーキ食べちゃったから」
ボクは、たまたまだけど昼を抜いたから余裕だよ。
「でも、なんで『10時間』なの」
担当エリアによって、時差を考慮して残業時間の上限の目安があった。例えばアメリカ大陸なら40時間、ヨーロッパなら30時間。ボクはアジア担当だったから10時間。
「なるほど。そういう規則なんだ」
いや、規則じゃなくて暗黙の了解。でも部下がそれ以上の残業時間をつけると、自分の評価に響く上司が許さなかった。労基法的にはアウトだと思うけど、組合も頼りなかったし、一人で戦う覚悟もなかったし。
「でも、なんで月に100時間以上も時間外労働してたの?」
それなりにどんな案件でもこなす上に、うまく立ち回ることができなかったから、どんどん仕事が増えていった。「40時間」や「30時間」の連中が、なんやかや理由をつけて自分たちの担当業務を押し付けてきた。上司はそれをホイホイ受けては、ボクに回したのさ。
「それって、ひどいよ。そんなブラックな職場でよく頑張ったね。5年だっけ」
あと1ヶ月でまる5年だった。
彼女のスプーンが止まった。
「ああ~だめだ。今日も完食できなかった」
皿の端に5分の1くらい残っている。
ボクの皿は片付いている。
「わたしの残したの、よかったら食べない?」
さすがにそれはボクも無理。
「でも、頑張ってたのになぜ辞めることにしたの」
12月最後の週に、1月1日付の人事の内示があった。ボクと入社同期の国際本部の2人が、そろって主任に昇格になった。ボクの上司に担当業務を押し付けた連中だ。
でもボクには昇格の内示は無かった。
「それって、へこむよね」
さすがに嫌になって、正月明けから休んだ。有休はたまっていたから、ちょうど2月末まで休める勘定だった。最初は上司から、そのうち人事から何度も連絡があったけれど、ボクはただ、体調が悪いと言って休み続けた。診断書出せ、と言われたのは無視した。
「さすがに会社も黙ってないよね」
1月下旬に上司から、このままでは辞めてもらうことになると連絡があった。その日に辞表を書いて、会社に送った。そうして2月末日付で退職した。
「そうか。いろいろあったんだね。話してくれて、ありがとう」
いや、ボクも話しをして、気持ちの整理がついた。聞いてくれてありがとう。
その日も郵便物のお礼に、ボクが彼女の分を払った。
二人一緒に電車に乗って、天歌駅へ。空いたボックス席に二人で向かい合わせになる。
「十海に来ると、家族に会わないか、いつもドキドキなんだよ」
会っちゃまずいことでもあるの?
「ま、まあね。またいずれ話すよ」
実はボクもドキドキだった。
「お互いビミョーな人生だね」
そう言うと彼女はクククと笑った。
<つづく>
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