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364 喜の章(2) 3月3日から7日

2日目:2020年3月3日(火)
全国の感染者数 22人
十海県の感染者数 0人

 3日続けて、同じネカフェで目覚めた。少し慣れたのか、寝覚めは悪くない。外へ出ると、風は強いが良く晴れている。
 兄貴には「しばらく友人のところで過ごす」とメールしておいたが、「いつになったら帰るんだ」とメールが入っていた。ひとまず無視をする。

 今日は駅前の牛丼店で朝食セット。鮭の切り身を口に運びながら、昨日のことを思い出す。一度キリかもしれないけれど、あれだけの美人とご一緒できた。人生そんな悪くないかもしれない。

 どこの大学の出身なんだろう。知性が滲みでる彼女の話しぶりは、間違いなく大卒以上ということを感じさせた。
「こう見えてもね、わたしルミ女出身なんだよ」と言ってクククと笑った彼女。
 ルミナス女子高ということは、国立コースだったら、大学はたぶん国公立か私立トップ校だろう。その下の特進コースなら国公立もあるし、ほとんどが私立上位校クラス。一般コースもほとんどが私立中堅校以上。そして、専願すれば全員内部進学で、花のルミナス女子大学に行けるらしい。
 なのに彼女は、大学のことを聞いたら「ひ・み・つ」と言った。

3日目:2020年3月4日(水)
全国の感染者数 34人
十海県の感染者数 0人

 今日もネカフェで目覚める。曇っている。昨日の夜の兄貴からのメールには、再び無視を決め込む。
 9時開館から城址図書館で過ごす。本降りの雨が降り出した。

 全国の新型コロナの感染者数が1000人を超えたらしい。

 大学のこともさることながら、そもそも彼女はどこの出身なのか、どこに住んでいるのかもはっきりしない。実家からルミ女に通っていたということは、天歌(あまうた)市か十海(とおみ)市、でなくてもその近辺出身だろう。あの日、電車に乗ってどこかへ行こうとしていた。天歌に家があって出かけるところだったのか。それとも天歌で用事があって、家に帰ろうとしていたのだろうか...
 あの日以来、彼女、狩野希(かのう・のぞみ)さんのことが頭から離れられずにいる。

4日目:2020年3月5日(木)
全国の感染者数 33人
十海県の感染者数 0人

 ネカフェで迎える5日目の朝。朝番のスタッフの人とも顔見知りになった。コインランドリーの場所を教えてもらった。1分も歩かないところ。

 ランドリーマシンのドラムの回転を見ながら、彼女のことを考える。
 どんな仕事をしているのだろうか。OL? だとしたら職場で大人気なんだろうな。それとも専門職? クリエイティブ系? まだ若いし、なにかを目指してバイトに励んでいるとか?

5日目:2020年3月6日(金)
全国の感染者数 54人
十海県の感染者数 0人

 新型コロナの世界の感染者数が10万人を超えたという。日本も、日に日に増えている。

 メールが届いた。また兄貴かと思ったら、会社の人事の中村さん。退職後に送った書類が「宛所不明」で戻ってきたとのこと。送り先を連絡するように、というご指示。少し時間をください、と返信する。
 退職後の連絡先について特に届け出はしていない。郵便局に転送の届け出もしてなかった。

 さて、どうしたものか。このままでは失業保険は貰えないし健康保険にも入れない。年金や住民税のこともある。
 実家に戻る、と覚悟を決めてそちらに送ってもらえば、ある意味一番わかりやすい。けれど...

 結論の出ないまま、夕飯をすませてネカフェにチェックインし、指定された席についたところでLINEのメッセージ。LINEで連絡をとる知人はほとんどいないので、よもや、と思ったら、彼女からだった。

「お元気ですか~。あした午後会いません?」

 そうか。ハンカチと一緒に舞い降りた天使に、ダメ元で縋ってみるという手があるか。
 ぜひ、お会いしたいです、と返信した。

6日目:2020年3月7日(土)
全国の感染者数 44人
十海県の感染者数 0人

 3日続けて晴れ。春の嵐も収まってきた。

 彼女との待ち合わせは午後2時。待ち合わせ場所は、天歌駅からルミ女と天高の前を過ぎて、さらに少し東へ行って通りを一本入ったところにある、小ぢんまりとした喫茶店。待ち合わせの10分くらい前に着いた。

 彼女は5分くらい前に入ってきた。今日は普段着の装いだけれど、相変わらず美しい。
「ここ、『隠れ家』って雰囲気でいいでしょ。ウチが一部屋だから、時々気分転換に来るんだ」とボクの前の席に腰かけながら彼女が言う。
 そうか。彼女はここの近くに住んでいるんだ。
 席に落ち着くと彼女がマスクを外す。その顔に浮かんだ笑みが露わになる。
「ブレンドが一番美味しいんだよ」という彼女のお勧め。二人ともブレンドコーヒーを注文する。

 コーヒーの香りが漂う中、しばらく世間話。どうしてもコロナの話が中心になる。最初の頃は、クルーズ船と中国の話ばっかりで遠い世界のことかと思っていたのが、急に身近な話になってきた。

 キミの仕事先でも、いろいろと大変なんじゃないの?
「そうだね。やはり...なんというか...キミは?」
 まずは、ボクのほうから白状しなければならないみたいだ。
 実は...先月末で勤めていた会社を辞めて、今は無職なんだ。
「そうなんだ。でも、よく思い切ったね。こんな時代に」
 まあ、いろいろとあって、限界っていうか...
「そっか。とりあえず詳しくは聞かないでおくね」

 しばらく二人黙ってコーヒーを飲む。
 おもむろにボクが切り出す。
 実は...キミにお願いしたいことがあるんだけれど...
「いいよ。わたしにできることなら」
 え? いいの? まだ二回しか会っていないのに。
 少し首をかしげて、謎めかしたような笑みを彼女は浮かべる。
「だから、できることなら、って言ってるでしょ」

 一呼吸おいてボクが続ける。
 十海市の実家に帰るつもりで、住んでた部屋を引き払った。けれど、実家に戻る気になれなくて、ネカフェに泊まっている。
「そう。それで、わたしに何を?」
 会社から書類を送ってもらわないと、失業保険とかの手続きができない。送り先をキミの家にさせてもらえないだろうか。
「なるほど。届いたらキミに連絡するってことかな?」
 そういうことなんだけれど...ダメだよね?
「うん。いいよ」
 え? 本当に?
「それくらいのことなら」
 ありがとう、助かった。
「そうだ。いっそのこと、ウチに住民票移したら? 住所地に連絡できない状態だと、このあと何かと困ることがあるでしょ」
 でも...
「あっ、もちろん、同居するってことじゃないからね」
 そう言うと彼女は、クククと笑った。

<つづく>


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