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364 喜の章(11) 4月13日

43日目:2020年4月13日(月)
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 目覚めると雨の音が聞こえる。かなり強く降っているようだ。
 7時過ぎ。彼女はキッチンにいる。お米を研ぐ音も久し振り。しばらく布団をかぶってまどろむ。

「朝ご飯できたよ」の彼女の声に、起き上がってキッチンへ。寝間着代わりのジャージの上下のまま。
 着替えたほうがいいかな。
「構わないよ。朝だし」
 炊きたてのご飯にインスタントの味噌汁と、目玉焼き。ボクのは2つ。彼女は1つ。
 食事が終わると、お湯を沸かし直して彼女がコーヒーを淹れる。
 今日は紳士の日だね。
「うん。雨強いし、それまで部屋で過ごすわ」
 
 ねえ、ずっと聞きたかったことがあるんだけど、聞いてもいいかな?
 2杯目のコーヒーを、彼女が注いでくれているときにボクが言う。
「どんなことかによるけど...ちなみにブラのカップならCだよ」
 それも聞きたかったけれど、もっと別のこと。
「答えられることなら」
 じゃあ聞くね、最初に会ったときに「大学はひみつ」って言ってたけど、どこの大学か、教えて欲しい。
「ああ、そのこと。わたし、大学は行ってないよ」
 あっけらかんと彼女が言う。バスルームから洗濯機の音が聞こえてくる。

「最終学歴高卒。1年間予備校通ってたけれど、これは学歴に入らないよね」
 でも、どうして大学行かなかったの?
「高校からルミ女に入って、2年から特進コース。国立天歌(あまうた)大学第一志望でね。ちょっと高望みだけれど、うまく行ってたらキミの後輩になれていた」
 現役はうまく行かなかったんだね。
「うん。試験日が最初だったルミ大の当日、風邪で高熱が出てパスした。他に滑り止めの出願してなかったから、天大の前期、第二志望の県立大の中期、天大の後期とも、無茶苦茶緊張して結局全滅だった」
 そうか。で、浪人したんだ。
「予備校通って受験勉強した。模試の結果もだんだん良くなってきた。そして次の年、ルミ大受けて合格した」
 よかったじゃん。他が駄目でもルミ大なら全然悪くないよね。なのに...

「ルミ大受かって、つくづく思ったの。『ああ、わたしはこのまま行けば、常識的な人生を歩むことになるんだ』って」
 常識的な人生?
「天大受かろうが、県立大行こうが、ルミナスに進もうが、そのあと就職しようが結婚しようが、きっとわたしの人生は『常識』の範疇に収まったものになるんだろうって」
 非常識だったり、常識外れな人生を歩みたいってこと?
「うーん、ちょっと違うんだな」
 そう言うと、彼女は少し遠くのほうに視線をやった。

「ルミ女出身の人と付き合ってたんだよね」
 そう。大学のときの同期の子だけど。
「ルミナスの校是って知ってる?」
 さあ。
 ボクの真っ正面に視線を戻すと、彼女は、はっきりとした口調で言った。
「一隅を照らす、一条の光たれ」
 いいね。シンプルで心に響く。自分の出身校の校是なんて、思い出せないや。
「ルミナスのいいところはね、『一隅』の範囲を広げて自由を認めてくれたこと」
 そう言うと彼女は、ほんの少しだけボクのほうへ上半身を乗り出した。
「わたし、高校のときからコンビニでバイトしてた。けど、何か言われることはなかった。天下のお嬢様学校なのに、放課後や休日のバイトは自由だった。よほどヤバいバイトじゃなければね」
 公序良俗に反しなければ、だね。
「そうそう、そのコージョなんとか」

 けれど、バイトする子は少なかったんじゃないの? お嬢様学校だし。
「そうでもないんだな。ルミ女の生徒で、本物の『お嬢様』はほんの一握り。わたしんちは、一般家庭でも比較的家計に余裕があったけど、そういう家庭の子が半分くらいかな」
 そうか、キミは根っからのお嬢様ではないんだ。あ、ごめん。気にしないで。
「大丈夫だよ。事実だし。そして残りの半分は、両親共稼ぎでやっと学費を払ってるような家庭。だから部活や趣味、遊びに使うお金は自分でバイトして稼いでいる子が結構いたよ」
 けれどキミの場合、バイトしなくても大丈夫だったんじゃないの?
 上半身を元に戻して彼女が続ける。
「漠然と将来のために貯金してた。高校3年間で150万くらい貯まったかな?」
 すごいね。
「親の意向に沿わない形で家を出るための、資金にはなったかな」
 そう言うと彼女は、乾燥まで終わった洗濯物を洗濯機から取り出して片付ける。

 さっき、常識について話をしてたよね。
「そう、常識の話。ルミナスの校是をどう解釈するかの問題みたいに、常識の範囲なんて考え方次第でいくらでも変わる。『常識的じゃイヤ』なんてじたばたしたって、結局常識的な人生になっちゃうのかもしれない」
 なるほど、一理ある。
「だからわたしは、ルミ大の合格発表のあとに決めた。しばらく常識から距離を置いた生き方をしてみよう。そう思って、カバン一つで家を出た。もちろん天大も県立大も受験しなかった」

 ここまで話すと、彼女はため息をついた。
 疲れた? 
「大丈夫。それよりお昼どうしよう。まだ雨降ってるよね」
 うん、降ってる。
「あり合わせで何とかしようか。そうだ、昨日茹でたスパゲッティの残りがある」
 彼女は冷蔵庫からスパゲッティの皿を取り出す。
「二人分には足りないから、少し追加で茹でようね」

 追加の分が茹で上がる直前に、昨日の残りを入れてさっと一煮立ちさせると、オリーブオイルを入れて熱してあったフライパンに、湯を切ったスパゲッティを投入する。しばらく馴染ませて、塩、胡椒で味を整えて、仕上げにドライパセリを振りかける。
「にんにくと赤とうがらしが無いので、ペペロンチーノもどき」

 オリーブオイルとパセリの風味のパスタを堪能して、彼女の淹れたコーヒーを飲む。彼女が再び話し始める。
「大学に行かずに家を出たのには、実は家庭の事情もあったんだよ」
 声のトーンがさっきと少し変わっている。
「会社経営者の父親と医療系の専門職の母親が、わたしが小学6年のときに離婚した。父親は羽振りが良かったから、養育費はちゃんと入れてたんだけど、わたしが浪人していた年の夏に、経営していた会社が倒産した。それから養育費の支払いが滞るようになった。3歳下の妹の学費もあるし、わたしが大学に行かないことにしたきっかけの一つになった」
 お母さんからなにか言われたの?
「『心配しなくていいよ』と言うだけだったけど、苦しくなるだろうことは、なんとなく伝わってきた」
 お母様はキミのことを探さなかったの?
「1ヶ月くらいは、スマホに電話がかかってきたり、メールが届いたりした。一回だけ『大丈夫』って返信して、そのあとずっと無視した。さすがにブロックはしなかったけどね。そのうち電話もメールも来なくなった」

 彼女は大きく息を吸って、吐き出しながらこう言った。
「なんやかや、そうやっていま、わたしはここにいる」
 わかった。聞かせてくれて、ありがとう。
「家を出てからの話は、また今度話すね」
 ボクのことも、もっとちゃんと話さなくちゃね。
「そうだね。会社の話はしてくれたから、学生の頃の話。カノジョの話も」

 彼女が立ち上がって洗い物を終えると、2時になっていた。
「いけない。そろそろ準備しなくちゃ」
 今日は紳士の日。
 約束は何時?
「5時」
 シャワーを浴びにバスルームへ行く。

 3時。ドライヤーの音が止むと、リンスとボディーローションの仄かな香りを漂わせながら、下着姿の彼女がバスルームから出てきた。ベッドルームのハンガーラックの前で15分ほどあれこれ悩んだ末、彼女が選んだ今夜の衣装は、ボクの前に舞い降りた日に着ていたのと同じ服。
「どうかな」
 いいと思う。あの日と...
「だよね。紳士もこの服が一番お気に入りみたいなの。口には出さないけど」
 お化粧道具一式を持ってバスルームの洗面台に向かう。念入りにメイクをしてさっとヘアセットすると出来上がり。
 時間かけた割には、あまりお化粧っぽくないね。
「ナチュラルメイクって、実はそれなりに時間がかかるんだよ」
 たしかによく見ると、目を中心に入念に手をかけたのが見てとれる。

 雨が降ってひんやりしているから、コートはあの時より少し厚手のものを選んだ。大事な薄いピンクのハンカチも忘れない。
「じゃあ行ってくるね。キミのこと、報告してもいいかな?」
 キミさえよければ。
「了解。帰るのは明日、朝9時か10時頃になると思う」
 わかった。気をつけて。
 レインブーツを履くと、首だけボクのほうを向けて言う。
「それじゃあ」
 彼女は、紳士の元へと出かけた。

 雨は夜まで続いた。

<つづく>


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