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364 喜の章(23) 5月13日から14日

73日目:2020年5月13日(水)
全国の感染者数  55人
十海県の感染者数  0人

 バイトに出かける彼女が残したドアの音に目覚めた。朝から晴れのよう。

 彼女が淹れたコーヒーを温め直しながら、リモコンでテレビをつける。
 多くの県で緊急事態宣言を解除の政府方針、というニュースが目に飛び込んできた。大都市圏は継続する、ということだが、十海県は解除されるのだろうか。昨日まで11日連続で感染者ゼロ。これで解除されなければウソだ。

 バイトから帰ってきた彼女に、ニュースの話をする。
「いつ?」
 解除されるとしたら、明日から。
「始まったのいつだったっけ?」
 たしか全国拡大が、4月の16日じゃなかったっけ。
「そっか...そんなに続いたんだ」

 昼食のあと横になり、一眠りする彼女。気温は昨日と同じくらいで、今日も夏日だろうか。風が強いので窓を閉めていると、扇風機が有り難い。 

 例によって彼女は3時ちょうどに起きてくる。コーヒーカップをボクと自分の前に置くと、「紳士」の話の続き。

「だんだんプライベートな話もするようになった。言ったっけ? 彼は今は独身だけど、大学で出会った3歳歳下の女性と大恋愛の末、親御さんの反対を押し切って結婚した。でも幸せは長く続かなかったんだ。結婚して3年経ったときに奥様が血液の病気を発症した。闘病生活を続けて、彼が30歳のときに亡くなった。本当に悲しかったんだと思う。この話をしたときの彼の表情からわかった。再婚の話はいくつも持ち上がったけれど、彼はずっと断り続けて、独り身を通した」

「奥様の写真を見せてもらった。病気になる前で、ちょうどわたしと同じくらいの年頃。笑顔がチャーミングな人。目鼻立ちは違うけれど、顔の輪郭がわたしと似ている。ひょっとしたら彼は、わたしの中に奥様の面影を追っていたのかもしれない。その年のクリスマスを一緒に過ごすことにした。日曜のイブだと翌日彼が朝から忙しいので、25日の夜8時に約束した。十海駅前の、市内で一番のシティーホテルのフレンチレストラン」

 ひょっとして、思い出の場所?

「そう。改築する前のホテルの同じ名前のレストランで、30年以上前の12月25日に、彼は奥様にプロポーズしたという。よもやと思って、予約席に着いて最初に聞いたんだ。そうしたら彼は笑って言った。私はぜんぜんその気はないから安心して、いい歳だから。もちろん君が『どうしても』って言うなら大歓迎だけどね。お料理もワインも美味しくて、久しぶりにとても気持ちよく酔った。デザートとコーヒーが終わって、お手洗いから戻ったわたしに彼が聞いた。よかったら、このホテルの私の部屋に寄って行かないかい、もちろん君の意思にまかせるけど。わたしは無言で首を縦に振った」

「最上階のツインのセミスイート。広さはわたしの部屋の倍くらい。ソファーに身を沈めたわたしのために、彼はルームサービスでコーヒーとお水を頼んでくれた。二人分のコーヒーとお水をコーヒーテーブルに運んでくれた彼が、ソファーのわたしの隣に腰かける。大丈夫?『ええ、いいワインだったのでとても酔い心地がよくて。こんな気持ちよく酔ったの久しぶりです』。じゃあ、コーヒーは?『いただきます』」

「コーヒーを飲みながらしばらく話をしていると、11時になった。そろそろ君は終電の時間だね、どうする? 疲れたならここに泊まっていってもいいよ、ツインだし。『そうですね。もう少しお話ししたいので、泊めていただいていいですか?』。それから、さらにいろいろとお話をした。奥様との新婚生活。彼の一族からの祝福はなかったけれど、小さなマンションでのつつましい暮らし。そろそろ子どもを、という頃になって奥様が発症した。難病で治療費がかかる。彼は両親に土下座して援助を頼んだ。拒んでいた父親の会社に入社することを条件に、治療費の援助を受けた。最先端の治療の甲斐なく、奥様は旅立たれた。お葬式になってやっと、奥様は家族と認められた...『ごめんなさい、つらいことを...』。いや、話すことで癒される、最近この話をする相手がいなくて...君がいてくれてよかったよ」

 夜のテレビのニュース。東京や大阪など8都道府県を除いて、緊急事態宣言が明日、解除されることになった。十海県も解除になる。

「問題は、いつになったら元通りになるか、だよね」
 ごもっとも。1ヶ月も続いたからね。

74日目:2020年5月14日(木)
全国の感染者数  99人
十海県の感染者数  0人

 今日も朝から晴れ。4日連続の夏日になるのだろうか。昨日ほどではないけれど風が強い。

 彼女が起きてくるまで、洗濯機を回しインスタントコーヒーを飲みながら、あいみょんにトライ。「マリーゴールド」。う~ん。なんで今まで聴かなかったんだろう。プレイリストをダウンロード。頑なに心を閉ざしていると、こんな素敵な世界があることに気付かないままになってしまう。

 相変わらず表示される競馬サイト。競馬って土日だけじゃなかったっけ、と思いながら、根負けした形でアクセスしてみると、平日の今日も全国いろんなところで開催されている。

 洗濯を干し終わったボクは、目覚めた彼女に聞く。
 宣言解除で、紳士とはどうするの?
「うん。今日相談してみる」

「昨日は、ホテルの彼のセミスイートに泊まることになった話だったよね。こんなこともあろうかと、下着の着替えとスキンケアは持ってきていた。先にわたしが広々としたシャワールームを使わせていただき、後で彼がシャワーを浴びた。手前のベッドに腰かけて待っていると、ほどなくバスローブ姿の彼がきて、もう一つのベッドに腰かけた。わたしが立ち上がって、窓際に行きカーテンを開けると、十海市の夜景がひろがる。しばらく見つめていると、年末の寒気が窓越しに忍び込んでくる。わたしがカーテンを閉めると、寝ようか、と彼。はい、と言ってわたしはベッドに入った。彼がベッドサイドのつまみを回して、部屋の照明を落とす。しばらくして、まだ彼の寝息が聞こえてこないのを確認して、彼のベッドに潜り込む。背中を向けていた彼が、寝返りを打つようにしてわたしのほうに向く。わたしが彼の背中に腕を回す。彼もわたしの背中に腕を回す。しっかりと抱き合った姿勢で、しばらくすると彼の寝息が聞こえ始めた。ほどなくわたしも眠りに落ちた」

「目覚めるとコーヒーの香りが漂っていた。先に起きた彼がルームサービスで頼んでくれた。わたしも起き上がって、カップにコーヒーを注ぐ。朝7時。彼は、今日は10時に出社する予定。朝食を一緒にすることにして、身支度をして8時に1階のコーヒーハウスへ行った。洋食中心のバイキングスタイル。最初にとったお皿を食べていると、専務、と声をかける人がいた。彼の会社の人。聞くとお取引先様のお迎えに来たという。その人がわたしのほうを見るので、ああ、親戚の子で東京から遊びにきてるんだ、と彼が言った」

「いったん部屋に戻ると、彼が封筒を渡してくれた。中を見ると10万円入っていた。『あの、わたし、そういうつもりじゃあ...』。私もそういうつもりじゃない。頑張っている君の助けになれば、ただ、その気持ちだけだ。好きなことに使ってもいいし、将来のために貯金してもいい。あまり固辞すると、かえって申し訳ない気がしたので『わかりました。でも、これでは多すぎます』と言って5万円を返した。わかった、君の気持ちがそれですむのなら、と言って彼は5万円を受け取り、わたしは5万円の入った封筒をバッグに入れた」

「9時30分。彼のスマホが鳴った。エントランスに迎えの車が着いたらしい。ロビーまで一緒に行くと、さっきみたいなことがあるといけないから、ここで今日はさよならしよう。『ありがとうございました。楽しかったです』。今週もお店に行くから。できれば水曜に行くよ。『待ってます』。それじゃあ。わたしはドアを開けて、もう一度振り返って軽く会釈をして、エレベーターホールに向かった」

「来週の月曜日に会おう、ということになったよ」
 紳士とメールで約束したらしい。

<つづく>


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