見出し画像

364 喜の章(9) 4月9日から4月10日

39日目:2020年4月9日(木)
全国の感染者数 574人
十海県の感染者数  2人

 中国の武漢の都市封鎖が解除されたらしい。封鎖は2ヶ月半続いたという。

 指定の時間に指定の場所へ「出頭」する。彼女はすでに着いていた。
「光崎歩(みつさき あゆむ)さんでいらっしゃいますね?」とわざと真面目くさった調子で彼女。
 はい、相違ありません。狩野希(かのう のぞみ)さん。
 ボクも同じような調子で返す。
「改めて、手持ちにしては結構な荷物だね」
 最初に持っていたカバンでは、その後増えた着替えとかが収まりきらない。ショッピングモールのホームセンターで安物のカバンを買っていた。両肩にカバンを一つずつ掛けた状態を、彼女にご披露することとなった。
「じゃあ、お引越しはお昼食べてからにしようね」
 そう言うと彼女は、前に行った蕎麦屋に向かった。
 二人ともにしんそばを注文する。
「ここも休業になっちゃうのかな」
 そうだね。

「そうそう、大家さんとの話。聞きたい?」
 うん。どんなだったの?
「事前に連絡しておいて、夕方4時頃に大家さんの家に行った」
 うん。
「それでね、『ペットを飼いたい』って言ったの」
 そしたら?
「『契約ではペット可、だから構わないけれど、なにか事情があるの?』と言われて『一般的なペットより、大型なんです』って言った」
 なるほど。
「『おトイレはちゃんとできるんでしょうね』と言われたので『はい』って答えた。『壁とか引っ搔いたり齧ったりしないでしょうね』と言われたので『そういう癖はないと思います』って言った」
 もちろんないよ。
「そしたら大家さんが『わかった。問題ないと思うけど、ちなみになんの動物?』と聞いたの。何て答えたと思う?」
 なんて言ったの?
「『ホモ・サピエンスのオスです』って答えた」と言ってクククと笑う彼女。
 大家さんは?
「大笑いして、言ったの。『ご近所の迷惑にならないようにね。くれぐれも大きな音は立てないこと』」
 それで一件落着?
「うん。だから。なにも心配しないで来てくれたらいいよ」
 本当にありがとう。でも...何度も聞くけれど、キミは本当に構わないの?
「うん、実はね...」
 ボクの目を真っ直ぐに見て、彼女は言った。
「2度目に会った頃から、こういう展開もあるかな、と感じていた」

 城址公園の東の文教地区の外れ、「隠れ家」の喫茶店よりもう少し行った、天歌(あまうた)駅から15分くらい歩いたところの3階建てのマンション。エントランスでオートロックを解除して、エレベーターで2階へ。通路の南側に5つの部屋が並ぶ。その一番奥、非常階段の手前の205号室が彼女の部屋だ。
 間取りは1DK。30平米くらいあるだろうか。ボクの住んでいたワンルームよりも二回りくらい広い。
 ドアを入るとすぐにダイニング。右手にキッチンがあり、その奥がバスルーム。
「一人だと少し広いけど、二人だとちょっと窮屈かな? まあ我慢してね」
 とんでもない。住まわせてもらうだけでも...
「コーヒー淹れるね」と言うと彼女は、キッチンのコンロにやかんをかける。
 真っ直ぐ進んでベッドルームのフローリングに荷物を置く。

 入口から向かって左手の壁際にシングルベッド。ヘッドボードにミラーとお化粧セット、目覚まし時計と小さなラジオ。ベッドの足側のダイニングと隔てる壁に本棚。カラフルな背表紙の本や雑誌が並んでいる。
 ベッドの反対側の壁際は、押し入れと大きめのクローゼット。バスルームと隔てる壁際に大きなハンガーラック。色とりどりの衣装が所狭しと掛けられている。
 ハンガーラックの前にちゃぶ台。ノートPCと雑誌が何冊か置かれている。
 南側の窓ガラスを通して、春の陽光が注ぎ込む。窓を開けると広々としたベランダ。その先には少し間を置いて、戸建ての民家が並んでいる。

 いい香りが漂ってきた。しばらくすると彼女の声。
「コーヒーできたよ」
 ダイニングの小ぶりなテーブルの、2つある椅子のベッドルーム側に腰かける。
 テーブルの端っこに、壁を背にする形で小型のテレビが置いてある。
 コーヒーに口をつけ、ほっと息をつく。
「どう、この部屋? お気に召しましたでしょうか」と言って彼女はクククと笑う。
 いい部屋だね。日当たりもいいし。それに、ほんときれいに片付いている。
「だいたい普段からこんな感じかな? 服以外はそんなに持ち物ないから」
 夜具を買ってきたほうがいいのかな?
「お客用の布団が押入れの中にあるから、キミにはそれを使ってもらうことにするね」

 3時半頃から彼女が外出の支度を始める。見ないようにダイニングにいる。着替えとお化粧のすんだ彼女。派手めの装い。
「今日はこのあと用事で出かけて、帰りは何時になるかわからない」
 わかった。
「お夕飯はなんか買ってきて適当にすませてね。お料理するならフライパンとか使ってくれたらいいし」
 いや。スーパーでお惣菜でも買ってこようと思う。
「じゃあ、ご飯は炊飯器の中のを食べてもらっていいから。食器は、さっと水ですすいでおいてくれればいいよ」
 了解。
「帰るの待たないで先に休んでね。明日は朝早くからバイト。次に顔を合わせるのは、明日のお昼になるかもしれないね」
 そう言うと彼女はドアを開けて出て行こうとした。
「そうそう」と言って振り返る彼女。
「合鍵を渡さなくっちゃ」
 キーホルダーの鍵を一つ外してボクに渡す。
 ありがとう。
「それじゃあ。ごゆっくり」

 夕方、国道沿いのスーパーに行って、夕飯のお惣菜を買って帰ってきたとき、肝心なことを忘れていたことに気付いた。
 オートロックの暗証番号を聞き忘れていた...
 レジ袋の中から漂ってくる揚げ物の匂いが、エントランスに満ち始める。
 スマホを出してLINEを送る。
 オートロックの暗証番号聞いてなかった。
 ほどなく彼女より返信。
「そうそう。私も忘れていた。XXXX。機密事項ゆえ、このメッセージは60秒後に消滅する...」
 クククと笑う彼女の顔が見えたような気がした。

40日目:2020年4月10日(金)
全国の感染者数 640人
十海県の感染者数  2人

 久しぶりに布団で目覚める。感触が懐かしくてしばらく寝そべったままでいる。
 8時頃に起き上がって窓を開けると晴れ。少し気温は低くなった。

 バイトに出かけた彼女からのLINE。
「11時半に、天歌駅改札前に来て」
 了解。お洗濯させてもらってもいいかな?
「どうぞ」

 バスルームは、1DKの部屋にしてはゆったりしている。セパレートで、手前に洗面台。奥にドラム式の洗濯乾燥機。洗濯物を放り込み、置いてあった洗剤の分量を計って投入する。ドラムが回り始めるのを確認して、バスルームを離れる。

 インスタントコーヒーがあったので、やかんでお湯を沸かして飲む。
 こうして一人で迎える朝。チェックアウトを気にする必要もなくのんびりと過ごせるのは、やはり夢のようだ。
 テレビをつける。チャンネルを変えても、どこもかしこも代り映えしないワイドショー。緊急事態宣言下ネットカフェの休業により「難民化」する人たちについて報じている。とても他人事ではない。

 バスルームからアラーム音。洗濯がすんだらしい。そのまま乾燥モードで回してもよかったのだけれど、朝の晴れた空を見たら、外に干したくなった。洗濯ハンガーに吊るして、ベランダの物干し竿に掛ける。少し風が強いのが気になったけれど、ちゃんと留めたからまあ大丈夫だろう。

 11時に部屋を出る。1枚きりの厚手の冬物ジャケットでは、いささか暑苦しい。春物のジャケットを今度買いに行こう。

 約束の天歌駅改札前には、15分前に着いた。5分すると彼女が来る。
「バスに乗って海へ行きたいんだけど、いいかな?」
 まかせるよ。
 駅の南口のバスターミナルから、ボクたちは天歌漁港行きのバスに乗った。

 天歌駅から南へ向かい、20分ほどで天歌漁港に到着する。終点までバスに乗車していたのは、ボクたち二人だけ。
 天歌漁港は、旧天歌藩の時代には商港としても栄えたが、明治になって十海(とおみ)市の沖に大きな港が整備され、その後はもっぱら漁港として発展してきた。今では水揚げ量が日本でも有数の、漁業の拠点として賑わっている。
 漁港に隣接して、フィッシャマンズ・ワーフと呼ばれる観光施設がある。名前の由来はアメリカのサンフランシスコの海沿いの観光名所。天歌漁港で水揚げされた新鮮な魚介類を売る鮮魚店や海産物を中心にした飲食店、土産物店などがある。
 名物は灯台をモチーフにした展望台。建築規制の厳しい天歌市の中で、この高さ40メートルの展望台が一番高い建造物。

 バスを降りると彼女は真っ直ぐに展望台に向かい、エレベーターの最上階のボタンを押す。
「ここの展望台、久しぶりだなあ」
 ボクもずっと来てない。
 最上階、円形の360度の展望室からは、昼は海側の雄大な眺めが、そして夜は山側の市街地の夜景が楽しめる。二人並んでぐるりと一周し、景色を眺めた後、階段を1階下りる。そこは回転式のフレンチレストラン。
 窓側の席に案内され、彼女がランチでは一番高い、5000円のコースをオーダーする。
「この前の残りを使っちゃおうね」

 魚介類メインのコースを堪能した後は、らせん状の通路を歩いて下りる。展望台の中心部分が縦長の水槽になっていて、泳ぐ魚たちを見ながら地上に下りることができる。あるものはゆったりと、あるものは俊敏に泳ぐ。群れを成すもの、我が道を行くもの。
「この水槽の中は、コロナとは無縁だよね」

 地上に下りると2時半になっていた。
「まだ少し時間があるから、浜辺に行こうよ」
 漁港のはずれから、西に向かって砂浜が伸びている。風は強いけれど、波は穏やか。春の陽射しが暖かい。
 波打ち際から少し離れたところに、二人並んで腰かける。
「この前、城址公園でキミが話した西行法師の和歌のお返しをするね」

「春の海 ひねくれのたり のたりかな」

 ...それも言うなら「ひねもす」でしょう。
「知ってるよ。ふざけただけ」と言って彼女は、クククと笑う。
 まあ、いささか風が強いのを別にすれば、情景描写は間違ってないね。

 マスクを外して、しばらく黙って海を眺める。
 彼女のほうに目をやる。
 眩しい陽射しに、少し目を細めた彼女の美しい横顔。まとわりつく風が後れ毛と遊んでいる。見とれるボク。
 視線に気付いた彼女がちょっと睨むような、それでいて、にこやかな目つきでボクを見て言う。
「こら。キミはペットなんだから、ご主人様の許しなしに、こっそり見つめたらだめだよ」
 クククと笑う彼女。

 こんな時代に、こんな幸せでいいんだろうか。
 人影のない二人きりの砂浜で、ふと、不安がよぎる。

<つづく>


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?