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364 喜の章(7) 4月1日から4月3日

31日目:2020年4月1日(水)
全国の感染者数 257人
十海県の感染者数  2人

 ...その人のことを彼女は「紳士」と言った。
 紳士って、どんな?
「そうねえ...とにかく紳士としか言いようがないな」
 一息ついて、彼女が続ける。
「というか、今まで誰かに話したことがなかったから、その人のことをどう呼べばいいか、考えたことなかった」
 そう。
「いまとっさに思いついたのが、紳士」
 どんな人か、質問してもいい?
「いいよ」...

 朝は曇り。昼過ぎから雨。気温は低くない。
 午後の図書館で、ボクは昨晩の彼女との話を、ぼんやりと思い出していた。

 ...年はおいくつ?
「今年の2月で59になった。キミより誕生日は1週間前」
 しゃあ、完全に親子の年齢差だね。
「そうなるね。だから一緒にいても、たいていの人は仲のいい父娘だと思って、全然怪しまないんだろうね」
 お洒落な人?
「うん。派手ではないけど、セレクトにもコーディネートにもセンスの良さがあらわれてる」
 どんなお仕事?
「十海(とおみ)市に本社がある大きなメーカーの重役」
 へええ。
「専務取締役って言ってたかな。創業者の長男だから、普通に考えたら社長なんだろうけど、お父様のご意向で会社のトップには家族はなれない、ということなんだって」
 同族経営をあえて否定するわけだ。
「話をしてると、なんていうか、すごいデキる感じの人だよ」
 聡明なんだ。
「そうそう。だから社長さんになっても全然おかしくないと思う」
 でも、やはり人の風下に立つのは、内心忸怩たるものがあるんじゃないかな。
「それがね、そんなこと感じさせないんだよ」
 人格者なんだ。
「もっとも、年収は社長とかよりはるかに多いんだって。グループのたくさんの会社の取締役とか、監査役、だっけ」
 そう、監査役だね。
「グループ会社から貰う分で社長の倍くらいになるんだって。それに会社の株もたくさん持っているから、ええと、配当?」
 配当だね。
「配当だけでも、半端ないんだって」
 どれくらいの年収だろう。
「聞いたことないけど、軽く億はいくと思う」...

32日目:2020年4月2日(木)
全国の感染者数 281人
十海県の感染者数  1人

 朝から晴れ。しばらく晴れが続くらしい。

 いつもより少し早く出て天歌(あまうた)城址公園に寄ってみる。桜の満開が近い。けれどお花見自粛で、散歩がてら見に来る人がちらほら、という程度。このシーズン例年なら市外、そして県外から多くの観光客で朝から賑わう。今年は、駅前から城址公園にかけて、江戸時代の面影を残す街並みを中心とする観光エリアが、ほとんど人出もなくひっそりとしている。

「全世帯に布マスクを2枚配布する」と、昨日安倍首相が表明した。布マスク? 世帯に2枚? 洗って繰り返し使えということらしい。意味不明だけれど、配られるのはいつ頃なのだろうか。

 図書館で相変わらずぼんやりとしていると、一昨日の彼女の話をまた思い出す。

 ...その紳士とは、定期的に会っているんだよね。
「だいたい毎週月曜日。夕方に会って、お食事して、ときどき映画に行って、それからホテルの彼の部屋で過ごすの」
 一晩過ごすの?
「うん。十海駅前のシティーホテルの最上階の部屋を、彼は隠れ家っていうか、パーソナルオフィスとしてずーっと借りてる。一応わたしは別の部屋をとってチェックインするけれど、実際に過ごしているのは彼の部屋」
 なにして過ごしてるの...ごめん。質問取り消すよ。
「いいよ、別に。そうねえ。お酒飲んで話をしたり、テレビや映画観たり、外でお食事の気分じゃないときは、早めにチェックインしてルームサービス頼んだりとか。そして眠くなったら添い寝して寝るの...『大人』もするけれど、ほんとたまにかな」
「大人」って?
「...その、要するに、そういうこと。キミもオトナなんだから自分で考えなさい」と言うと彼女はクククと笑う。

 会うのは週末じゃなくて、月曜なんだ。
「月曜日、彼は会社の役員会とかが立て続けなんだって。一日びっしりで疲れるから、わたしと会ってリラックスしたいみたい。それに週末だと、翌日ずるずると時間を過ごしちゃって、お互いもったいないって、それもある」
 なるほど。じゃあ火曜の朝ご飯を食べて「じゃあ、また」となるんだ。
「そう。そして毎回別れ際にお小遣いをくれる。5万円」
 5万円?
「パパ活の『大人』の相場の高いほうになるかな? 彼は最初10万くれるって言ったんだけれど、けじめはつけたかったから、私からお願いして5万にしてもらった」
 そんなお金持ちの紳士と、どうやって知り合ったの?
「2年とちょっと前かな? 勤めていたお店の常連さんに連れられてやって来た。話をしたら楽しくて、帰り際に『なにかあったら連絡しなさい』と言って名刺を渡してもらった。2、3日して携帯の番号のほうに電話して、二人で会うことになった。それが始まり」
 でも、金銭の授受があるんだ。
「なるほど。そういう言い方になるんだね。でもそれには、お互いを拘束しない、っていう意味もあるんだよ。だから会っているとき以外はそれぞれ自由。わたしも自由にやっている。キミのことを話したら、お食事しなさいってお小遣いをくれるくらいだからね」...

 そうか。紳士のことを気にせずに、彼女と自由に会ってもいいんだ。
 LINEする。
 この前はありがとう。よかったら会わない?
 すぐに返信。
「キミからお誘い、珍しいね。いいよ」
 明日とか?
「夕方から用事があるから、お昼食べて午後なら大丈夫」
 じゃあ、天歌駅改札前で11時半。
「かしこまりました」のスタンプ。

33日目:2020年4月3日(金)
全国の感染者数 353人
十海県の感染者数  1人

 晴れ。日に日に暖かくなっているようだ。

 待ち合わせの改札口に約束の5分前に着いた。ちょうどぴったりに着いた今日の彼女のファッションは、春らしい明るいコーディネート。
「待った?」
 いや。大丈夫。
「どこ行こう」
 どこでも。
「じゃあ、考えるのめんどくさいから、そこにしよう」と彼女は駅前のファミレスを指さした。

 ランチセットのハンバーグを食べ、ドリンクバーでおかわりして、店を出たのは1時半頃。
 北へ向かって、表門から城址公園に入る。少し左に行って桜並木へと向かう。
「お花見は自粛じゃないの?」
 花見じゃなくて、散歩のついでに、密にならないように注意して桜並木を通るだけなら、問題ないよね。ちゃんとマスクもしてるし。
「それもそうだね」
 満開なのに今日も人出はちらほら。ふだんの年なら、平日でも花見の宴席がずらっと並ぶところだ。 
「近くに住んでるのに久しぶり。やはり広いね」
 旧浅山(あさやま)藩十万石の城址だけのことはあるよね。
「十万石って、偉いお殿様なの?」
 石高では大大名の末席くらいかな。ただ天歌藩主は『准国主格』といって、大名としての格式は高かった。
「へええ」
 明治維新後には、天歌が県庁所在地になってもおかしくなかった。けれど、すんなりと新政府軍に従わなかったために、県庁所在地を今の十海に持っていかれちゃったらしい。
「そう。残念な藩だったんだね」
 ただ、そのおかげで天歌は、都会として発展し過ぎることがなかった。そして、昔ながらの城下町の風情が残る観光地として、ブランドになった。

 並木道の真ん中あたりで、少し外れて奥に入る。
「わあー、すごい。大きな桜の木だね」
 目の前に現れたのはソメイヨシノの大木。幹の高さは10メートル、横に張った枝の幅は20メートルくらいあるだろうか。
 ボクの大好きな桜の木でね。高校の頃から毎年、会いに来ている。今年も一つ歳をとりましたって挨拶するんだ...変かな?
「ちっともおかしくないよ。ロマンチストっていうか、詩人だね、キミは」
 横に張った樹も太いでしょ。
「本当だ。大人がぶら下がっても大丈夫そうなくらい」

 願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃

「それって、高校のときに習った気がする。だれの歌だっけ」
 西行法師。如月は旧暦の2月だから「その望月の頃」は、今でいうとだいたい3月の後半あたりらしい。
「西行法師って、いつ頃の人だっけ」
 たしか、12世紀じゃないかな。
「そんな昔から、人は桜を見て、物思いに耽ってたんだね」

 再び桜並木に戻って先に進み、東門から城址公園を抜けると文教地区に入る。旧藩校の流れを汲むボクの母校の県立天歌高校。藩校の文庫と薬草園に源流を持つ、ボクのもう一つの母校の国立天歌大学。旧制女学校からの歴史を持つ、彼女の母校の私立ルミナス女子高校。同じ学校法人が運営するルミナス女子大学...いくつもの教育機関と、天大医学部付属病院。春休みとはいえ平日の午後なら部活の生徒の声などで賑やかなところだけれど、今はひっそりとしている。

 2回目に会ったときの「隠れ家」のような喫茶店に入る。
「ああ、楽しかった。こういうデートもいいよね」
「デート」という言葉にピクっと反応したボク。英語の本来の意味では、別に気にすることではないのだけれど。
「来年は、本式のお花見ができるといいよね」
 そうなってくれるといいね。

 1時間ほど話をして店を出ると、「用事」に向かう彼女と一緒に駅へ行く。

<つづく>


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