「L」と過ごした、雨降る日々のこと 第2話 ~エル~
30分しても戻ってこないエルを、ボクは捜しに出た。
城址公園のあたりまで行ったところで、向こうから歩いてくる彼女を見つけた。
うつむき加減で、見上げるような視線をボクに送るエル。
ちょうど雨が降り出した頃、ボクたちは一緒に部屋に戻った。
コーヒーを淹れてマグカップに注ぐと、エルの前に置いた。
一口啜る彼女。
「ごめんなさい」とボク。
「...」
「無神経だった。謝る」
おもむろに口を開くエル。
「キミがそういうことに興味を持ったとしても、仕方ないよね」
「...」
「現れ方は違うけれど、キミもわたしも性的存在であるわけだし」
視線を遠くにやって、エルが続ける。
「レズビアンのわたしとキミの間には、越えられないボーダーがあること、改めて思い知らされちゃったな」
「わたしがここにいて、迷惑じゃない?」
そう言って、エルは視線をボクのほうに戻す。
「迷惑だなんて...思ったこともないよ」
「キミのために何かできるわけじゃないし」
「カノジョのいないキミを慰めるための、右手の代わりになれるわけでもないしね」
「それって...どういう意味?」
「そうね...さっきの仕返しかな」
それまで無表情だったエルの顔に、うっすらと笑みが浮かんだ。
「ちなみに、わたしは左利きだよ」
「じゃあ、『エル』は、レフティーの『L』だね」
「ははは。それ、いいかもしれない」
「さっき言ってたボーダーのことだけど」とボク。
「うん」
「キミがボクにカミングアウトしたことで、越えられないボーダーの存在が、明らかになったんだと思う」
「そうだね」
エルの目をまっすぐに見て、ボクは続ける。
「でも、キミとボクはこうやって同じ時を過ごしている。ボーダーを挟んでコミュニケートしようとしている」
「うん」
「ボクが言うことなんて、きれいごとかもしれない」
「そんな...」
「ほんの小さな『かけら』なのかもしれない」
「...」
「けれど、そうやって小さな『かけら』を積み重ねることで、ボクはキミという女性、いや、キミというヒトと、わかり合いたいと思う」
「うん」
「そのことが『奇跡』だ、と思えるくらいに」
エルの瞳が、きらりとしたような気がした。
外は本降りの雨になっていた。
エルは、週末をお相手の女性のところで過ごしていた。
東京都出身の3つ年上。仕事で行ったカンファレンスで知り合って、何度か会った。
「ビジネスにはつながらなかったけれど、プライベートでつながっちゃった」
大学を卒業してその人が就職した先は、そういうことに理解のある職場ではなかった。
「男まさり」などという、心無い言葉が平気で飛び交う。
カミングアウトどころではない。
学生時代からのつながりに支えられて、なんとか仕事を続けているのだという。
「キミは職場では?」
「誰にも言ってない」
「やはり無理解な感じ?」
「いや、逆に必要以上に気遣ってくれそうな雰囲気。『腫れ物に触るように』っていうのかな。それも息苦しいし」
「あの人と比べれば、わたしなんか、ほとんど苦労していないようなもんだよ」とエルが強調する。
その人が、自分のセクシュアリティに気付いたのは中学生のとき。
異性愛が前提の授業。水泳のときの着替え。修学旅行の宿での入浴...
性自認は女性なのに、好きになるのは女の子ばかり。
自分の思いを殺して悶々と過ごした日々。
高校2年のとき、両親にカミングアウトした。
父親の怒り。ただ嘆くばかりの母親。
自分のセクシュアリティについて、ちゃんと受け止めて話を聞いてくれる人がいなかった。
自己嫌悪、自己否定、そして希死念慮。あらゆるマイナスの感情に苛まれた。
とにかく逃げ出したくて、首都圏以外の大学を受験し、ボクの出身大学に進学した。
大学でセクシャルマイノリティの仲間と出会い、学外のネットワークとのつながりもできた。
やっと見つかった、気持ちを楽にできる居場所。
そして、交際相手ができた。
「わたしはね、あの人にとって3人目の交際相手なんだ。だから『三度目の正直』だったらいいな、と思うの」
瞳をキラキラと輝かせながら、彼女が話す。
その人を心から尊敬し、信頼し、愛しているのがわかる。
「低気圧の周囲ではね、風が反時計回りに吹き込んで渦になるんだ」
首都圏直撃の予報を伝えるテレビの台風情報を見ながら、ボクはエルに言った。
東京から新幹線で1時間半ほどのところにある、ボクたちの住む街。どうやら直撃は免れるとのこと。
それでも外は、不規則な荒い息遣いの風に乗せて、雨粒が乱れ落ちてくるようになった。
「時計の針と反対に回るなら、低気圧の中に入れば時間を元に戻せるのかな?」とエルが言った。
「そうだね。コリオリ先生に聞いたらわかるかな」
ボクは窓を閉めると続けた。
「地球の自転の影響で、コリオリの力というのが働く。低気圧の渦はそのためなんだって」
「それより、あの人のところに行かなくて大丈夫なの?」
「いま東京に出張してる」
「ドンピシャだね。心配じゃない?」
「心配だけど、たぶん大丈夫。ちゃんとしたホテルに泊まってるって言ってたから」
「チャンネル変えてもいい?」とエル。
「うん。いいよ」
どのチャンネルも、右下に台風のレーダー画像を映していた。
情報番組にチャンネルを合わせた。
男女二人組の音楽ユニットの話題だった。
「いいよねえ。Y」と言って、楽曲の一節を口ずさむエル。
「へえ、Yっていうの」とボク。
「えっ、知らないの?」
「うん」
「それって、マズくない?」
「そうなの?」
「音楽に興味ないとか」
「なくはないけど...好き嫌いが激しくって」
以前の職場で、当時人気絶頂だったミュージシャンのGについて「好きになれない」と言ったことがある。
すると、周囲のボクを見る目が、あたかも異星人を見るかのようになった。
それ以来、最近の音楽は聴かなくなった。
「時間を戻せるかどうかはともかく、進んでいく時間にはついて行ったほうがいいと思うよ」とエルの総括。
「コリオリ先生どころではないですね」と畏まるボク。
やがて雨は、まさに「滝のよう」な降り方になった。
地上波のほとんどのチャンネルが、台風情報の特番に切り替わった。
11月後半になって、晴れる日が多くなった。
エルが、仕事の関係で12月初めからしばらく東京に滞在することになった。
半年くらいの予定で、千葉の両親のところから仕事先に通うそうだ。
「クリスマスは東京か。お相手と離れて寂しくないの」
「寂しいよ。正直なところ」
エルの表情が一瞬曇った。すぐに元に戻って続ける。
「東京へ発つ前に、1か月早いクリスマスをやるんだ」
「じゃあ、ボクの出る幕はないね」
そう言いながら、エルが東京に発つ前の火曜日、ボクはシフト明けの夕方の売り場で、見切り品を買い込んだ。
部屋にやってきた彼女が、その量に目を丸くした。
「壮行会、だとしてもちょっと多くない?」
「大丈夫。残ったら冷蔵庫に詰めといて片付けるから」
「じゃあ、期限の早いものから先に食べるね」
缶チューハイで乾杯すると、二人は「値引きシール付きのご馳走」の山に取り掛かった。
ボクたちの街は、冬場は晴れの日が多い。
その年の冬は、例年に増して晴天が多く、雨の降らない日が続いた。
ボクはアルバイトの日々を淡々と過ごした。
エルとは、ときどきチャットで短く近況報告をした。
変わったことといえば、スマホの音楽配信サービスに加入したことくらい。
Yをはじめ、少しずつ最近の音楽を聴くようになった。
そんな中、春から国立大学に入った女の子が、ボクの職場にアルバイトで入ってきた。
ボクより8つ年下のその子を、ボクは先輩として指導することになった。
そのことをエルに報告した。
彼女から「武運長久」のスタンプが返ってきた。
5月の下旬、「6月初めに戻る」というチャットがエルから送られてきた。
ちょうど梅雨前線が沖縄、奄美あたりを行ったり来たりして、本土を窺っていた。
雨の季節を待つかのように、そこここに佇む紫陽花の蕾。
梅雨入りした6月最初の火曜日、エルがボクの部屋にやってきた。
その日の夜遅く現れたエルは、全身ずぶ濡れだった。
傘を持ってこなかったのか、どこかに置いてきたのか、わからない。
部屋に入ってくるなりフローリングにしゃがみ込んだ。
顔を両手で覆うとさめざめと泣き始めた。
ショートヘアの黒髪から落ちる水滴。
ボクはしばらく、声をかけられずにいた。
頃合いを見計らって、ボクはエルに話しかけた。
「...どうしたの?」
「あの人が...あの人が...こんなのって!」
(続く)
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