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364 喜の章(13) 4月15日から16日

45日目:2020年4月15日(水)
全国の感染者数 552人
十海県の感染者数  1人

 7時に目覚めると彼女はもう出かけていた。
 テーブルの上にメモ。
「お味噌汁作ったよ」
 お鍋の蓋を開けると、具沢山の味噌汁。ジャガイモに玉ねぎ、ワカメにお豆腐にネギ。
 冷蔵庫を開けてハムと卵を取り出す。フライパンに油を熱してハムを2枚引き、卵を落としてハムエッグ。
 お味噌汁を温め直して、ご飯をよそって食べる。こんな健康的な朝ご飯、勿体ないような気がする。

 まずまずの天気。昨日より暖かくなるという。洗濯機を回して、今日もベランダに干す。
 お洗濯が終わると、昨日買ってきた衣装ケースに服を詰める。もう着ない冬物のジャケットとシャツはカバンに入れておく。ジャケットはクリーニングに持って行こう。衣装ケースをクローゼットにセットして完了。
 彼女からLINE
「11時半に天歌(あまうた)駅改札前に来れる?」
 OK。

 最初にお茶をした喫茶店で、BLTサンドの昼食。
 こういうお店でBLTは珍しいのかな。
「看板メニューのひとつだよ」
 彼女はカモミールティー、ボクはモカ。
「キミの学生時代のこと聞かせてよ」
 じゃあまずは、ボクの家庭環境から。

 父親は苦学して弁護士になった。仲間と立ち上げた弁護士事務所を、今では十海(とおみ)県でも3本の指に入る弁護士法人に育て上げた。
 母親はパラリーガルをしながら、兄貴とボク、妹の3人の子どもを育てた。
「パラリーガルって?」
 弁護士のアシスタント。単なる雑用じゃなくて、裁判所に出す手続き書面を作ったり、契約書のドラフトを作ったり、相当高度な法律の知識が必要になる。
「へええ。お母さまはそんな難しいお仕事をしながら、3人の子育てと両立したんだ。スーパーレディだね」
 両親のどちらを尊敬するかと聞かれたら、母親と答えるかもしれない。
「お兄さまはいくつ年上?」
 4つ上。小さい頃から秀才で、大学生のうちに司法試験の予備試験はおろか、本試験まで受かったんだ。
「あんまりそのへんはよく知らないけれど、すごいことなんだね」
 在学中に予備試験に受かるケースは少なくないけど、本試験まで受かるのは相当少ない。今は父親の事務所のエース。
「妹さんは」
 ボクと同じく県立天歌高校に通って、大学はルミナスを特待生で卒業した。
「へええ。優秀なんだ」
 なにかにつけ要領がよくって。在学中に父親の事務所の弁護士と婚約。今は結婚してパラリーガルをやりながら司法試験を目指している。
「法律一家なんだね」

 そんな家族の中で平凡を絵に描いたようなボクは、だんだん「浮いた」存在になっていった。それでも頑張って勉強して、県立天歌高校に入学した。
「すごいよね。県内トップの進学校だからね」
 英語が好きでね。高校の部活は英語研究会。高校のうちに英検準1級をとって、TOEICは858点をマークした。
「やっぱり優秀な血筋なんだ」
 母親は、国際弁護士もいいじゃないって褒めてくれたけれど、父親は、政経の成績が悪い。もっとしっかりやれ、と言った。
「そんなに成績が悪かったの?」
 全科目だと「中の上」くらいだったかな。模試の合否判定はボーダーラインだったけど、なんとか現役で国立天歌大学法学部に合格して、兄貴の後輩になった。
「大学はご実家から通ったの?」
 天歌に住むことに憧れていたから「勉強に集中したいので大学の近くに住みたい」と言ったら、すんなりと認められて部屋を借りた。その部屋にこの2月末まで住んでいた。
「弁護士になる勉強を頑張ったの?」
 やるにはやったけど、司法試験の勉強は乗り気がしなかった。英語のサークルに入って、2年のときにTOEIC935点とった。
「留学経験とか無しにそれって、すごいんじゃない」
 英語サークルのコーチのカナダ人講師に特訓してもらってね。これだけは自慢できる。
「ご家族の反応は?」
 母親は喜んで、アメリカのロースクールに行ったら、と言ってくれたけれど、父親から、何うつつを抜かしている、司法試験の勉強に専念できないんだったら、家に戻ってこい、と怒られて、英語サークルを辞めることになった。
「それって、悲しかったね」

 英語サークルのお別れ会のあと、同学年で一緒だった子に告られた。
「ルミ女出身のカノジョ?」
 うん。英文科の子。
「どんな子?」
 ショートカットでクリクリっとした目が可愛い子。身長は160に少し足りないくらい。どちらかというと地味だったかな。
 大学のカフェテリアで一緒にお昼を食べたり、土曜の午後に一緒にでかけたり、そんな感じで学生時代を過ごした。
 4年のときに受けた予備試験は不合格だった。カノジョは、大手の総合商社に勤務地限定総合職で内定した。
「で、キミは司法試験浪人?」
 うん。実家に戻って来いって言われたけれど、それだけは譲らずに天歌に残った。
「カノジョは?」
 ボクが乗り気じゃないことを知ってた。だから浪人1年目の予備試験に落ちて、司法試験挑戦をやめることを打ち明けても、何も言わなかった。

「それから就職活動?」
 うん。家族には内緒でね。十海産業の新卒第二次募集があるのを知って、ダメ元で9月にエントリーしたら一次選考を通過した。
 10月に大学のサークルの先輩で人事の人が面接してくれて、英語力と法律の素養を買われて新卒扱いで採用が内定した。11月だった。
「ご家族には話をしたの」
 内定してから話したら、当然のごとく猛反対だった。てんで話にならなくて、捨て台詞みたいに、経済的にも独り立ちするんだから文句ないだろって言ったら、12月分を最後に仕送りが止まった。入社するまでの3ヵ月を、短期バイトで何とか食いつないだ。
「そして、前に話してくれたブラックな環境に放り込まれたわけね。それでカノジョとはどうして別れたの?」
 週末にしか会えないんだけれど、いつも寝不足でね。あれの最中にまで眠り込んでしまうような状態で、さすがに呆れられたんだと思う。入社して1年経った頃に、フラれた。
「そっか。それでカノジョはいま、どうしてるの?」
 社内公募で転勤ありの総合職に転換して、今は東京にいるって聞いたけれど、詳しくは知らない。

 3時頃に部屋に戻る。準備をする彼女。

 昼間の普段着の彼女と、夜のお仕事の彼女。そのお化粧と装いを、わずかな時間差で見較べる。

46日目:2020年4月16日(木)
全国の感染者数 558人
十海県の感染者数  0人

 目覚めて窓を開けると、雲間から光が射していた。朝から暖かい。

 帰りが遅かった彼女を起こさないように、ダイニングに行ってトーストとインスタントコーヒーの朝食。
 彼女が起きたのは10時近く。パジャマ姿でダイニングに来ると、お湯を沸かしてコーヒーを淹れる。今日は夕方から「用事」とのこと。

 テレビをつけて、ローカルのワイドショーを見る。緊急事態宣言が十海県に発令されたら、暮らしはどうなるかについて。
 そのままお昼の全国ニュース。
 内閣官房長官が午前中の記者会見で、緊急事態宣言の対象地域追加については聞いていない、と発言した。
 う~ん。これは今日出るね。
「聞いていないって言ってたよね」
 明確に否定はしなかった。調整が進められているんだと思う。
「へえ。そういうもんなんだ」

 彼女が作ったタンメン風のインスタントラーメンの昼食を終える。彼女は例によって「3時になって寝てたら起こして」と言ってベッドへ。ボクは引き続きテレビを見る。
 支度をして彼女が出かける直前に、緊急事態宣言対象地域を拡大する方針を政府が示す見通しとの発言が報道された。この人、自民党の国会対策委員長をテレビで見ると、なぜか「くまモン」を思い出す。
「いよいよだね」と言いながら、彼女は「用事」へと出かけた。

 しばらくして、対象地域を全国に拡大する、という政府方針が発表された。十海県もついに緊急事態宣言の対象となる。
 もし彼女に出会っていなかったら。彼女がボクをここへ住まわせてくれなかったら。夜はまだ冷える空の下、途方に暮れていたのだろうか。それとも尻尾を巻いて、実家に戻ったのだろうか。ボクにとって、究極の選択を迫られていたのは間違いない。
 専門家に意見を聞く諮問委員会の開催と「妥当」との見解。それを受けて開催される衆参議院運営委員会。一連の儀式を経て、夜、新型コロナウイルス感染症対策本部開催。緊急事態宣言の全国拡大が決定された。期間は5月6日まで。紆余曲折を経て全国民1人あたり10万円に決まった、給付についても正式に発表された。

 彼女が帰ってきたのは、11時頃。遠くに雷の音が聞こえたような気がした。彼女に夕方以降の動きを説明する。

 改めてボクは、キミに感謝しなければならない。路上生活だろうが実家に戻ろうが、それに比べれば今のボクは天国だよ。
「まあ、だいたい想定した通りだね。それにしても給付金の額。紳士のお小遣いの2回分だよ? こんなこと言うと、バチがあたるかもしれないけど」

<つづく>


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