天使の法律事務所--新米弁護士くん、恋も実務も修行中 中編
2.天使と公正証書
天歌(あまうた)総合法律事務所は、設立3年の若い事務所。メンバーも若い。所長のルカさんと副所長の内田さんが同い年で、今年31になる。吉野さんは2つ年下。そしてボクはさらに3つ年下になる。
事務所の執務時間は、原則として平日の朝9時から夕方6時まで。所長以下4名は、執務時間中はお互いのことを「先生」と呼ぶ。「浅山先生」も、ボクのことを「深町先生」と呼ぶ。もちろん所長、副所長、先任弁護士、新米弁護士の序列は厳格だ。意見を述べることはできるが、結論は上長が下す。
執務時間外は、一転してフラットな関係に変わる。自由に発言し、とことん議論を戦わせる。呼び名も「先生」ではなく、愛称に変わる。「浅山先生」は「ルカさん」に、「内田先生」は「ケイさん」に、「吉野先生」は「ヨッシー」に(さすがに先輩なのでボクは「ヨッシーさん」とお呼びする)。
そしてボク。最初ルカさんは「『シンちゃん』でどう?」っと聞いた。「ちょっとお下品な幼児キャラ」を連想してしまって、丁重にお断りしたところ、「シンジくん」に落ち着いた。
ゴールデンウィークが明けてすぐの日、ちょうど先生モードから愛称モードに切り替わる直前くらいに、その電話が入ってきた。
「深町先生、安重さんです」と、電話をとった吉野さんが転送してくれた。
「もしもし。深町です」
「安重です。いま、大丈夫ですか?」
「はい、お願いします」
「沙久良...ええと、阿東さんにお話をしました」
「そうですか」
「そして、一度、一緒に先生のところにご相談に行こう、ということになりました」
「わかりました。いつ頃がよろしいですか?」
「明日か明後日の、夕方5時くらい」
「ちょっと待ってくださいね」
さすがに電話越しでは、矢は飛んでこない。ボクは落ち着いて自分の予定表と、事務所の会議室の空きを確認した。
「お待たせしました。どちらでも大丈夫ですよ」
「じゃあ、明日で」
「わかりました。明日の夕方5時。お待ちしています」
「あの...これって、お金がかかるんですか?」
「いえ。公正証書作成の手数料に含まれますので、かかりません」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「こちらこそ。よろしくお願いします」
電話が終わったときは、事務所は愛称モードに切り替わっていた。会議室の予定表に、明日の5時から念のため7時までの時間帯を記入したボクに、ルカさんが聞く。
「シンジくん。明日の5時は一人で大丈夫かな」
「そうですね。阿東さんも一緒に来られるので、ちょっと不安ではありますけれど」
「まあ、わたしは事務所にいるようにするから、困ったらSOS出してね」
「ありがとうございます。ルカさん。心強いです」
翌日、夕方5時に二人は現れた。
安重瑠美花(あんじゅう るみか)さんのお相手である阿東沙久良(あとう さくら)さんは、ショートボブの安重さんとは対照的に、黒髪を胸のあたりまで伸ばしている。身長は安重さんよりは高く、ちょうど吉野さんと同じくらい。切れ長の二重の目が印象的な美人タイプ。制服は伝統的なスカートスタイル。挨拶をして、二人をこの前と同じ会議室に招じ入れる。今度は忘れずに初対面の阿東さんに名刺を渡す。
「弁護士の深町です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
阿東さんは、アニメの声優を思わせるような可愛らしい声。
今日は内田さんも吉野さんも外出しているので、所長御自ら、お茶を運んでくる。
「こちらが、お話した先輩の浅山さん」と安重さんが阿東さんに紹介する。
「こんにちは。今日は当事務所の期待の新人の深町先生がご応対しますので、納得するまでいろいろ聞いてくださいね」
しばらく黙ってお茶を啜る。現役ルミ女の天使が今日は二人。緊張しないと言えば嘘になる。安重さんからは、相変わらず矢が飛んでくる気配を感じる。
「さて、それでは」とボクが切り出す。
「まずは...お二人でどのようなお話をされたか、お聞かせいただけますか」
「民法の恋愛の部分を二人で読んで、それから話し合いました」と安重さん。
「それで、結論は...出ましたか?」
「はい。公正証書で拘束恋愛契約を結ぼう、ということを決めました」
「わかりました。安重さんの意思は先日確認していますので...阿東さん。貴女の意思を確認させていただいても、よろしいですか?」
「はい。そうですね。法律の文章のどこにどう当てはまるか、はっきりとはしないんですけれど、瑠美花と同じ気持ちだ、ということは間違いありません」
この容貌でこの声。転校してすぐに、クラスの人気者になったのも納得できる。もっとも阿東さんからは、ボクのハートに矢か飛んでくるどころか、気配すら感じない。
「わかりました。恋愛関係は...有効に成立していると認めます」
ここまでで喉が相当乾いた。ルカさんのお茶を一口啜る。
「それでは、また阿東さんにお聞きします。ええと、恋愛契約のうち、拘束恋愛契約を締結すると...どういった責任を負うことになるか、ご理解されていますか?」
「はい。他の人と恋愛関係になってはいけない、ということですね」
「そうです。それから、その他に契約書に書いて決めたことに合わせて、約束を守る責任が法的に発生します。法的に、というのは...ただの約束ということではなくて、破った場合には、えーと...相手に慰謝料を払わなければならないことも、覚悟する必要がある、ということです」
「理解しています」
「ちなみに恋愛契約であっても、非拘束恋愛契約だと、そのような縛りは原則としてありませんし、書面を作る必要もありません」
「はい。そのことも理解しています」と、はっきりと阿東さん。
「ええと...安重さんも、ここまでのところ、改めて、ご理解されていますね」
「はい。大丈夫です」
ここまできたところで、ルカさんが扉をノックして顔を出した。
「深町先生、大丈夫?」
少し首をかしげるようにして、顔だけ出した彼女の可愛いらしい仕草に、ハートに刺さったままのルカさんの矢が、疼く感じがする。
「え、ええ。なんとか。」
「お二人も大丈夫ですか?」
「はい」「ええ」
「じゃあ」と言って扉を閉めると、ルカさんはデスクに戻った。
「ええと、では、拘束恋愛契約を締結するとして...書面で結ぶ必要はあるけれど、公正証書でなければならない、ということではないです。この前見せていただいた、あの...学校のパソコンで作って署名したものでも、ちゃんと文言...つまり、契約書の文章を吟味しておけば、効力は変わりません」
「そうですね」と安重さん。
「それでも、お金をかけて公正証書にしておきたい、ということでお二人とも構わないでしょうか」
「はい。構いません」と阿東さん。
「私は最初からそのつもりです」と安重さん。
「わかりました。それでは公正証書による、ということで決まりですね」
「公正証書の手続きにも関係する重要な事柄ですが、今回の契約締結について、親御さんには知らせない、と安重さんはこの前仰ってましたが...阿東さんは、どうですか」
「16歳以上なら、未成年でも親の同意なしに締結できるんですよね」
「そうです」
「私も、できるなら親に話したくないです」
「ところで阿東さんはパスポートはお持ちですか?」
「はい、去年とりました」
「あと、お二人とも朱肉をつけて捺すタイプのハンコは用意できますか?」
「はい」「ええ」
「了解しました。一応公証役場に確認しますが、手続きに問題ないと思います」
それからボクは、その他に、デートの頻度や費用の負担、連絡方法、二人の関係を公表するかヒミツにするか、など盛り込んでおく事項がないか確認し、二人から「特にない」との回答を得た。
「じゃあ最後に、契約の期間をどうしましょうか」
「ええと、それって必ず決めておかなければいけないんですか?」と安重さん。
「必ずってことではないですけど、普通は例えば2年とか3年、5年と決めることが多いです」
「決めたら、その期間で終わってしまうってことですか?」
「期限だけ決めてしまうのであれば、形式的にはそうなります。けれど、当人同士の意思によって続けることは可能です」
「私たち、ずっと一緒にいようね、っていう約束のしるしに契約するんです。だから期間は...」
「わかりました。ただし期間を定めないと、お互いが合意しない限り、この契約にずっと縛られることになりますが、それでも構いませんか」
「はい。構いません」と安重さん。
「私も、同じ気持ちです」と阿東さん。
5時半を回っていた。ノートを見てここまで聴き取った事項をチェックすると、ボクは言う。
「それでは...契約書のドラフトを作ってくるので、少しお待ちいただけますか。まだお時間大丈夫ですよね」
「はい」
「大丈夫です」
「そうだ。書面上のお二人の順番をどうしましょう」
一瞬向かいあう二人。
「言い出しっぺは瑠美花だから、先でいいんじゃない?」と阿東さん。
「じゃあ、私が先で」
「了解しました。あと、阿東さんの住所をここに書いてください。
ノートを1枚破いて、万年筆と一緒に阿東さんの前に差し出す。
決して綺麗ではないけれど、丁寧な字で阿東さんが住所を書き、渡してくれた。
「それじゃあ...」と言ってボクは席から立ち上がり、自分のデスクに向かう。
入れ替わりに、ルカさんが会議室に入って、可愛い後輩のお相手をする。
さて、デスクのPCで、生成AI搭載の文書ドラフト作成支援システムのメニューを立ち上げる。
まずはプルダウンで「契約書」を選び、種別のうち「拘束恋愛契約」を選ぶ。
「公正証書」「公正証書以外」と表示されるので「公正証書」にチェックを入れる。
次に当事者。「甲」に「安重瑠美花」、「乙」に「阿東沙久良」を入力する。「丙」以下は当然入力しない。
当事者住所。「甲」に先日ヒアリングした安重さんの住所、「乙」についさっき書いてもらった阿東さんの住所。
契約の始期はひとまずブランク。契約期間は「定め無し」をチェック...
一通り必要事項を入力すると「作成」のボタンを捺す...
ディスプレイ上に見る見る公正証書の文案が表示され、1分もしないうちに完成する。
「印刷」の指示をかけ、事務所の奥の複合機の前に行く。しばらくスリープだったので再起動に時間がかかる。A4の紙1枚がプリントアウトされるまで1分近くかかる。AIのドラフト作成に所要時間で負けてる?
公正証書のドラフトを持って、会議室に戻る。まず、ルカさんに出来立てのドラフトを見せる。
「うん。いいんじゃない、AIもどんどん進化してるね。弁護士要らずの世の中が来ることを、ほんとに覚悟しなきゃいけないかもしれない。ね、深町先生」
そう言いながら、ルカさんはドラフトを二人に見せる。
「気になるところがあったら言ってね」
しばらく二人は文案に目を落とす。2、3分したところで顔を上げる。
「大丈夫です」と安重さん。
「私も」と阿東さん。
「それじゃあ、さっき話していたことを盛り込もうか」とルカさん。
「ええと...何か不都合がありましたか?」とボク。
「そうじゃなくって、契約の期間について、改めて話をしたの...」
二人がずっと一緒にいたい、という気持ちを疑うのではない。けれど、人間の気持ちなんて、どうなるかわからない。だから、関係性を見直すことができるように、区切りを設けておくのがいいのではないか...
「それでね、とりあえず残りの高校生活をカバーする2年間という期間を設定しておいて、自動更新条項をつけてはどうか、ということになったの」とルカさん。
「『期間満了日の3ヵ月前までにいずれの当事者から何らの意思表示のない場合』でしょうか」
「そうそう。まさにそう。その意味を説明して、二人とも納得してもらったから」
「わかりました。ではドラフト直してきます」
そう言うと、ボクはデスクに戻って、システムを修正モードにし、契約期間と自動更新条項を設定した。
今度は3枚プリントアウト。2枚を二人に渡す。
「それでは、公正証書を作るために、公証人のアポをとらなければなりません。平日の9時から5時まで。学校が終わってからだと4時からでしょうか」とボク。
「はい。学校休むわけにはいかないので」と阿東さん。
「私も」と安重さん。
「特に都合の悪い日とか曜日とかは?」
「大丈夫です。部活なら休めますので」と安重さん。
「私も」と阿東さん
「じゃあ、明日、天歌の公証役場に確認してみますね」
最後に、用意していた委任状2通に、それぞれ署名してもらった。
ルミ女の話題で盛り上がるであろう3人を残して、ボクは会議室から出てデスクに移った。何故だろう。今日は安重さんの矢は、最初は飛んでくる気配がしたのだけれど、実際には楯で防御する必要は感じなかった。やはり、彼女が愛する阿東さんが隣にいたからだろうか。
もしもルカさんに、そんなお相手がいるとして、二人が一緒にいるところに出くわしたら、ボクのハートに刺さった矢はどうなってしまうのだろうか...
30分ほどして、二人は帰宅した。
「シンジくん。お疲れ」
「いえ。アシストありがとうございました。ルカさん」
もう愛称モードの時間帯になっていた。
「可愛いルミ女の女子のお相手で、緊張したでしょう。今日は早めに上がったら」
「わかりました。片付けたら帰ります。ルカさんは?」
「わたしは、明日朝一のオンライン法廷の準備を、もう少しやってから帰るわ」
翌朝出勤すると、すぐに天歌公証役場に連絡した。平日の4時から公証人の予約のとれるのは、一番早くて5月最終週の木曜日だったので、予約を入れた。それに合わせて、その一週間前の9時から、ボクが事前相談に行くことでこれも予約を入れた。
安重さんのアドレスに、予約についてメールした。1時間ほどして「私も沙久良も大丈夫です」と返信が返ってきた。
やれやれ、初めての担当案件がどうやら無事片付きそうだ、と一安心したのだったが...
公証人の予約を押さえてから一週間ほどした日。ちょうど朝の、愛称モードから先生モードに切り替わる頃合いに、その電話は入ってきた。
「お電話ありがとうございます。天歌総合法律事務所です」と電話を取ったボク。
「そちらに深町という弁護士はいますか?」と女性の声。電話を通じて怒りのオーラが噴出している。
「深町は私ですが」
「あなた、事務所の責任者?」
随分失礼な言いようだなと思いながらも、気持ちを落ち着けて答える。
「いえ、責任者ではありませんが」
「責任者を出しなさい!」
「生憎、責任者である所長は所用で外出しておりますが」
「じゃあ、次に偉い人を出しなさい!」
「かしこまりました。お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「阿東です」
電話を保留にすると、ボクは「次に偉い人」に該当する副所長の内田さんに、ひょっとしたらこの前の阿東さんの親御さんかもしれない、と説明して電話を代わってもらった。
「お電話代わりました。副所長の内田と申します...はい...はい...はい、承知しております...はい...はあ...左様ですか...はい...はい...それでは所長に申し伝えまして、改めてご連絡させるように致します。お電話番号を...はい...はい。本日ご都合のよい時間帯は?...はい...夕方から夜の早い時間帯ですね。かしこまりました。たしかに申し伝えます...それでは...失礼します」
「どうでしたか」と恐る恐る内田さんに聞く。
「やはり、あの阿東さんのお母上だった。恋愛契約の件で説明に来るように、ということだった」
夕方、ルカさんから阿東さんのお母さまに電話して、3日後の午後1時に、ルカさんとボクで十海市のお宅を訪ねることになった。
阿東さんのお宅を訪ねる日、朝からどんよりと曇っていた。予報では、夕方から雨が降り出すかもしれないとのこと。
念のため折り畳み傘を持った二人は、11時に事務所を出ると、AUショッピングモールにある、東京の老舗の和菓子屋のショップで手土産を買って、天歌駅へ向かった。
「これはさすがに今回の事案の経費にはできないね」とボクが持ったお菓子の手提げ袋に目をやって、ルカさんが言う。
「そうですね」
「事務所の信用に関わる問題を片付けに行くんだから。ま、こういうことも経験だと思って」
「はい。勉強になります」
天歌駅から十海駅へ向かう電車は、早朝と深夜以外は、ほぼ15分に一本出ている。ホームに上がるとちょうど電車が出ようとしていたところ。乗り込むと、座席はほとんど埋まっていたので、扉の近くに並んで立った。すぐ目の前にルカさんの顔がある。十海駅に着くまでの30分、ボクのハートに刺さったルカさんの矢は疼きっぱなしで、いろいろ話しかけられても上の空だった。
「緊張してるのかな?」
「え、ええ。もちろん...」
そういえば、2月の面接のときは、ルカさんの髪は腰まで長く伸びていた。4月になってボクが入所すると、ルカさんのヘアスタイルはボブカットになっていた。長い髪はとても似合っていたけれど、短いのも素敵だと思う。
12時少し前に十海駅に着く。新幹線が停まる県庁所在地の大きな駅の、駅ナカの蕎麦屋で昼食。ルカさんと二人きりでのお食事も初めてだったから、それなりに緊張した。けれど、電車の中のような至近距離ではないので、少し落ち着いて話ができた。
「まあこういう場合、事実を包み隠さずお話しして、誠意ある対応をするしかないけどね」
今日の対応方針について、ルカさんが話す。
蕎麦湯をいただきながら、ボクはルカさんの髪のことについて尋ねた。
「ボクが入所するまでに、髪を切られたのですね」
「ああ、これね。いま気付いたんじゃないよね」
「ええ、最初の日に気付いてました」
「建前は、ヘアードネーションということにしている」
「そうですか」
「でも本音は、心境の変化っていうか、気分を変えたかった」
「...これ以上お聞きしないほうがいいですか」
「白状するね。司法修習生仲間だったカレシと、別れた。キミを面接した、少し後だったかな」
「そうですか」
「遠距離恋愛でよく7年近くも続いたと思う。でもお互い三十過ぎて、限界だったのかな。納得して、きれいにサヨナラしたよ」
12時45分くらいにタクシー乗り場に行く。地図上で見るからには、車で5分ほどの距離。すぐに乗り込んで、住所を告げる。ナビに住所を入力すると、運転手さんは車を発進させた。
阿東さんのお宅は十海駅の北、国立天歌大学の経済学部キャンパスの後ろに広がる、高級住宅街の一角にあった。
到着したのは12時50分過ぎ。ドアホンのボタンを捺すと「はい」という女性の声。ルカさんが名乗る。ほどなくドアが開く。
「お待ちしておりました」と不機嫌な声を発して出迎えるのは、40代半ばくらいの女性。阿東さんが自然に年齢を重ねると、こうなるんだろうなという顔立ち。不機嫌な表情さえなければ、掛け値なしの美人。
広々とした応接間に通され、ソファーに腰を下ろす。しばらくして、阿東さんのお母さまは、台所からお茶を三つトレーに載せて運んでくると、ボクたち二人の前とルカさんの向かい側に置いた。
ルカさんとボクが立ち上がる。
「改めまして、天歌総合法律事務所の所長を務めております、浅山です」とルカさんは言って、名刺を差し出す。名刺を受け取ると、一瞥もくれずにお母さまはテーブルに置く。
「所属弁護士の深町です」と今度はボクが言って名刺を差し出す。
「所長さんだけで結構です」
きっぱりと言って、お母さまはボクの名刺を受け取ろうとしない。
お母さまが着座されたのを確かめて、ルカさんとボクは再びソファーに腰かけた。
「これは、ご挨拶代わりに」と言いながら、ルカさんが、用意してきたお菓子の包みをお母さまのほうに差し出す。
「後で拝見しますから、置いといてください」とお母さま。
「主人も同席する予定でしたが、所用が長引いて遅れると連絡がありましたので、先に始めさせていただきます」
お母さまは、そういってお茶を一口啜ると、こう切り出した。
「単刀直入に申し上げます。貴方方は、娘に何を吹き込んだのですか?」
お話によると、阿東さんが安重さんと一緒にうちの事務所から出てきたところを、お母さまの知り合いの方が目撃して、お母さまにお話しになられたという。「女子高生が法律事務所?」と訝ったお母さまが、阿東さんを問い詰めた。最初は何も言おうとしなかった阿東さんが、さらに厳しく問い詰められて、やむなく安重さんとの恋愛契約のことを白状し、公正証書のドラフトを差し出したのだという。
テーブルの端に置いてあった封筒から、お母さまはA4の紙を取り出した。まさにボクがプリントアウトした公正証書のドラフトの1枚。
「なんですか? この『拘束恋愛契約』というのは? 何かふしだらなものではないのですか?」
「ご説明します。『拘束恋愛契約』は、民法の恋愛編の規定に基づいて締結される契約です。確かに両当事者に対する拘束力は強いですが、それ自体が何かふしだらなもの、ということはありません」とルカさん。
「拘束される、ということは婚約する、ということではないのですか?」
「婚姻の予約を盛り込むことは、民法の規定により可能です。しかし今回の契約内容には含まれませんので、婚約に該当する効果はありません」
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(婚姻の予約)
第七百二十四条の十二 拘束恋愛契約において、婚姻の予約をすることができる。
2 前項の婚姻の予約は、契約締結日から三年以内に婚姻する内容のものでなければならない。ただし両当事者の合意により三年を限度に延長できる。
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「婚約でない、とすると、何が、どう拘束されるというのですか?」
「拘束恋愛契約の『拘束』には、主に二つの面があります。一つは、お互いに他の人と恋愛関係に入らない、という意味での拘束です。もう一つは、その他契約で決めたことについて、法的な責任が発生するということです。恋愛契約のもう一つの類型である非拘束恋愛契約の場合は、それらの拘束はなく、恋愛関係にあることを確認して、『お互い仲良くしようね』と約束するだけのものです」
「それでは、うちの娘が拘束恋愛契約を結んでいる間に、縁談が持ち上がって結婚した場合はどうなるのですか?」
「その場合は、民法の恋愛契約の終了の規定が適用されます。
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(恋愛契約の終了)
第七百二十四条の十三 恋愛契約は、当事者間に婚姻が成立した場合、当然に終了する。
2 当事者の一方にのみ婚姻が成立した場合、恋愛契約は終了する。
3 前項により拘束恋愛契約が終了する場合、婚姻が成立した当事者は、他方の当事者に生じた損害を賠償する責任を負う。ただし、当該他方の当事者に同時に婚姻が成立した場合は、この限りではない。
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「拘束恋愛契約が有効であるうちに、その一方が第三者と婚姻した場合、もう一方には損害賠償を請求する権利が発生します。そう...慰謝料のようなものでしょうか」
「慰謝料ですって? とんでもない!」
お母さまが声を荒げたちょうどそのとき、遅れていたお父さまがボクの正面に着座された。
「遅くなりました。阿東沙久良の父の信義(のぶよし)と申します」
「そうそう、名乗るのをすっかり忘れてましたわ。私は沙久良の母で瑞希(みずき)と申します」と少しトーンを落ち着けてお母さま。
「私には気になさらずに、話を続けてください」とお父さま。
「よろしいですか」とお母さま。
「わが阿東家は、旧天歌藩十万石の城代家老を務めた血筋。主人はその当主です。廃藩置県後、華族にこそ叙されなかったものの、由緒正しい家であることはおわかりでしょう。その家の娘が、素性も知れない家の者と、娘の縁談の差し障りになるような契約を結ぶなどということは、親として断じて許せません。しかもその相手が女性? 同性愛など、もっての他です。最近のルミナスはどうなっているのでしょう。レズビアンの同性婚が二人揃って教師をしているとか」
いったん収まったかに見えたお母さまの怒りが、再び高まってきた。
「そもそも娘は未成年ですよ? 一体全体、あなた方は娘にどのような入れ知恵をしたのですか?」
少し下げていた視線を真っ直ぐにし、お母さまのお顔をしっかりと見ると、落ち着いたトーンでルカさんが話す。
「お答えします。まず、我々はお嬢様に入れ知恵などはしておりません。お嬢様方のご意向を伺って、それに対して法的観点からのご助言を差し上げ、ご意向に沿う形で公正証書による契約の締結のお手伝いを差し上げているだけです。未成年の点は、満16歳以上であれば、親権者の同意なくとも恋愛契約を締結できることが民法に規定されています。そのことも含めて、関連する民法の条文をお二人はすべてご自身でお読みになられて、法律のエキスパートである我々の説明を完全にご理解なさったうえで、ご自身の意思で恋愛契約の締結をお決めになられたのです。このようなこと申し上げるのは失礼かもしれませんが、『入れ知恵』という先ほどのお言葉は、撤回していただきたいと存じます」
「そ、それは...」とお母さま。
さらにルカさんが冷静な口調で続ける。
「阿東様のお家柄、確かにご立派なものです。そのようなお家のお嬢様の行く末について、ご両親がご心配されるのも、まったくもってごもっともかと思います。しかしながら、我々も弁護士。法曹界の一員としてその名に恥じぬよう、信義誠実を旨とし、市民の権利擁護と公正な社会の実現のために日夜精進しております。そのような我々に、『入れ知恵』というお言葉は、到底受け入れられるものではございません」
ルカさん。カッコいいです。何本でも矢を飛ばしてください...
一同しばらく沈黙ののち、お父さまが卓上に置いてあったルカさんの名刺を手にして、読み上げた。
「浅山...! あの、不躾なことをお聞きするかもしれませぬが、貴女はひょっとして...」
「お気付きになられましたか。思し召しの通りと存じます」
「み、瑞希...ここにおわす方は...旧天歌藩主浅山家のご一族なるぞ!」
「はい。わたしは当主の娘です」
「えっ?」と言ったきり、目を見開いたまま凍りついたお母さま。
「家老の嫁の分際で、家内が姫に失礼な物言いをしましたこと、平にご容赦ください」
そう言うと、お父さまは床に下り立ち、ソファーを足で後ろに押しやって土下座の姿勢を取った。
「何をしている。お前も」とお母さまにお父様。
その言葉に我に返ったようにお母さまも床に下り立ち、お父さまと同じ姿勢になった。
「どうか、お願いですから、そんな恰好はやめてください。今日はそんなつもりでお伺いしたわけではありませんので」とルカさんが立ち上がって言う。
向かい側の二人はそれでも土下座をやめない。
「それでは、『おもてを上げよ』と命じたら、やめていただけますか?」と、少しおどけた風にルカさんが言う。
「そう仰せなら、では」と言ってお父さまが立ち上がり、続けてお母さまが立ち上がり、ソファーを元に戻して座り直された。
「先ほどルミナスのお話をされましたが、わたしも実はルミナスの出身です」とルカさん。
「左様ですか」とお父さま。
「レズビアンカップルの教師も二人ともルミナスの出身で、学年は違いますが面識があります。二人とも立派な教育者で、生徒から慕われています」
「それはそれは」
「ルミナスの校是は、ご存知かもしれませんが『一隅を照らす、一条の光たれ』。二人の教師は、新しい時代の最先端を走りながら、一条の光でこの世を照らし続けています。そんな存在を容認するルミナスの懐の深さが、卒業生であるわたしが誇らしく思うところです」
「誠に、仰せのとおり」
「今回の契約のお相手である安重瑠美花さんは、高校受験を経てルミナスの特進コースに入られた優秀なお嬢さんです。どのようなご家庭かは存じ上げませんが、ご本人は、しっかりとした考えをもった、立派な方です。お嬢様と手を携えて、一条の光となるような人生を送られることを、わたしは望んで止みません」
「けれど...」とお母さま。
「まだ娘は高校生です。16歳になっているので恋愛契約を締結できるとしても、これから先、本人の考えが変わることもあるやしれません。そんな娘の未来を、あまり拘束してしまってもいいのかと...」
「その点について、わたしがお二人とお話ししました。そうして盛り込んだ規定では、契約期間を2年と定め、期限前に見直しをできる機会を保証しています。もちろん、契約期間内でも双方合意すれば契約の終了は可能です」
「わかりました」
「いずれにしても、公正証書による契約締結の予定日までには、まだ日にちがあります。お嬢様とじっくりお話をなさってください」
阿東家を辞したとき、2時半を過ぎていた。十海駅まで歩いて行こうとするボクたちを、お父さまとお母さまは最敬礼の格好でずっと見送っていた。
どうやら事務所に戻るまでは、雨に振られずにすみそうだ。
「あの~」とボクがルカさんに話しかける。
「うん」
「浅山先生が、天歌藩のお殿様の家系だって、初めて知りました」
「あれ、世が世なら伯爵令嬢だって、言ってなかったっけ」
「はい。初めてです」
「驚いた?」
「どちらかというと、謎がひとつ解けたような気がします」
「謎か...わたしって、そんなにミステリアスかなあ」
「いや、そういうのとは少し違います」
「まだ謎はあるの?」
「え、ええ。そうですね」
「じゃあ、すべての謎が解けたら、ご褒美にデートをしてあげよう」
ルカさんから二本目の矢がボクのハートに飛んできて、突き刺さった。
「それとも、後期アラサーのオバさんじゃ、いやかな?」
滅相もございません! ボクは心の中で叫んだ。
その後数日して、阿東さんが親御さんに理解してもらった、というメールが安重さんから届いた。
今度こそ本当に「やれやれ」だと思っていた...
<下編へ続く>
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