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聖書タイム2022年1月「信仰と希望と愛の歌」

by 山形優子フットマン

山形優子フットマンの執筆・翻訳 by 「いのちのことば社
新刊「季節を彩るこころの食卓 ― 英国伝統の家庭料理レシピ
翻訳本:
マイケル・チャン勝利の秘訣」マイク・ヨーキー著
コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」ジョン・C・レノックス著
「とっても うれしいイースター」T・ソーンボロー原作
「おこりんぼうのヨナ」T・ソーンボロー原作

「新しい歌を主に向かってうたい
美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。」
ーー 詩篇33:3


新年が明けましたが、パンデミックのせいで、私たちは、どこへどう行くのか、未だ先が読めない状態です。加えて地球温暖化問題など、2022年も激動の年になる予感は大。そんな時、冒頭聖句のように、新しい歌で喜びの思いを表現する事は果して可能か、誰もが首を捻るでしょう。

最近、私はよく、近所のセント・ジョージズ病院に用事で行きます。この病院はN H S(ナショナル・ヘルス・サービス)総合病院で、英国の中では「屈指の医療体制」と高い評価を得ています。先日も、新型ウィルスで危篤状陥った老人が奇跡的生還を遂げ、「この病院のおかげ」と広く報道されました。老人の息子が知名度あるジャーナリストだったため、BBCラジオ放送で「セント・ジョージズ病院のナースとドクターのお陰で父は命を取り留めました。クリスマスの日を返上して彼らは献身的看護を続けました」と語ったから。けれども、この冬、セント・ジョージズ病院だけでなく、全英各地、あるいは世界中の病院で多くの命が失われていく一方、一人の人の尊い命が、人間愛によって救われていった時の感動が、静かな波紋のように広がり続けることも、忘れてはなりません。

ところで、英国の各病院には「スピリチュアル(魂)・ケアー・センター」という部署があります。セント・ジョージズの場合も建物の中心に小さなチャペルがあり、患者や家族、スタッフ達は、そこでいつでも祈れます。(壁を隔てた隣の部屋にはイスラム教徒用祈りのスペースも。)チャペルの前のクリスチャンの事務所には4、5人の聖職者たちが常勤、責任者である英国国教会の牧師の元には、カトリック教会の神父、プロテスタント教会の異なる宗派の牧師達が連なります。

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↑セント・ジョージズ病院のチャペル。

ある時、チャペルで祈った後に事務所に立ち寄り、たまたまカトリックのルーカス(仮名)神父さんと話す機会がありました。背の高い痩せ型の若い神父は、私に椅子を勧め、おもむろに扇風機のスイッチを入れたには驚きました。コロナ予防対策だそうです。多忙の中、時間をとっては申し訳ないと、次々に質問すると、神父はニコニコしながら、どんなに忙しいかを語ってくれました。

「私が現在、心のケアーをしている患者さんは、病院内だけで400人以上。できるだけ頻繁に病床に出向きます。天に召されるのが近い方たちには一日に2度。地域のカトリック教会から『○○さんが入院した』と連絡が入ったり、直接リクエストを受け、共に祈ったり聖書を読んだりです」

「不治の病と言われた患者さん達が、奇跡的に癒されることは?」との質問に彼は「奇跡的な癒しは日常茶飯事ですよ。あまりたくさんあるので、いちいち覚えていない」と答えたのに、私はまた驚きました。ルーカス神父は続けます。「最近では、新生児が今晩までもたないから洗礼をとの連絡が入った時のこと。病棟に駆けつけ、小さな赤ちゃんに洗礼を授けた途端、青白かったその頬が、見る見る薔薇色に変化しました。洗礼式を境目に、死にそうだった赤ちゃんは日に日に元気になり退院。両親はもちろん、担当スタッフ達、この私も深く感動しました」と。

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↑チャペル内に設置された「祈りのリクエスト」を提出するボックス。

もう一つルーカス神父が忘れられないのは、コロナ感染で意識不明が3ヶ月間続いたアイルランド系の老人のこと。カトリック信者の老人は子沢山、子孫20人にも及ぶ彼の大家族を引き連れてキャンピング・トレーラーのキャラバン隊を作り、旅から旅へと英国各地で移動遊園地を仕掛ける、英語ではいわゆる「トラヴェラー(旅人)」と呼ばれる人達。意識不明になった、おじいさんのために、息子・娘夫婦、孫達を含む大家族全員が毎晩必ず、病院のチャペルで祈ったそうです。3ヶ月目、小さな孫娘が、事務所にいたルーカス神父の所に立ち寄り「おじいちゃん、目が覚めたの」と嬉しそうに報告したそうです。「神は祈りに応えてくださる」と神父は満面の笑みをたたえました。

話を聞くうちに私の心の中に、温かい光が差し込みました。希望は、あるのです。でも希望はどうしたら見つかるでしょうか。祈りという手段を通して見つかるのです。心の内を神に注ぎ出せば、必ず応えてくださいます。答えは自分の願い通りではないかもしれませんが、神の開いてくださる扉は最善の道、血を分けた家族はもちろん、教会の「家族」にも祈ってもらうことが大切です。

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故フランク・シナトラが歌う「マイ・ウェイ」が大ヒットしたのは、「後悔もあるけれど、自分の思い通りの人生を送った」という歌詞に、聴く人々が満点をつけたからでしょう。けれども人間は皆、人生という「まな板」の上に横たわる鯉同然、少しでも多くの酸素を吸い込もうとあがくことに気を取られているのが現状です。

霧がかかって一寸先も見えない年の幕開け、今年は「マイ・ウェイ」は難しそう。一所懸命の自力人生も悪くは無いけれど、希望がなければ自力は枯渇します。今月の冒頭聖句のように、シナトラのヒット曲とは、だいぶ異なる「新しい歌」が欲しいところですが、自力本願では新曲は浮かびません。まな板の鯉に至っては、ますます曲想など思い浮かばないはず。けれども、心配には及びません。以下の聖句を読んでください。

「わたしの口に新しい歌を
私たちの神への賛美を授けてくださった」
ーー 詩篇40:4


主は私たちに、ご自身が作られた歌を口づさめるよう、歌も用意してくださるのです。ですから冒頭聖句の下り「美しい調べと共に喜びの叫び」(詩篇33:3)が自然に上がるのです。自力手綱を緩め、私たちが主と共に歩きたいと願えば、つまり主を信じて仰ぐ「信仰」を持ち、主から来る「希望」のトーチをオリンピック聖火走者のように、大切にたやさず走れば、トーチのエネルギーは人間の生きる原動力「愛」になります。新らしい年、「信仰と希望と愛」の三拍子リズムで、共に歩いて行きませんか。

「それゆえ信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で、最も大いなるものは、愛である」
ーー コリントの信者へ手紙1:13