アダムとイエス(2)
神によって造られた「アダム」は、
はじめ国もなく、民族もなく、性別もなく、肉親もなく、組織もなく――そのような、ただの、身一つの、純一無雑の、「裸の人間」であった。
そして、神によって「命の息を吹き込まれて」、はじめて「生きた者」となった。
若き日に、私がはからずも行ったこととは、国もなく民族もなく…という、さながら原初の「アダム」のように、自分自身をばはっきりと意識し、しっかりと認識することであった。
明朗で、単純で、運動好きな少年にすぎなかった私に、そんな大それた意図や思いの、あったわけもない。当時の私は「聖書」も知らず、「アダム」はもちろん、「イエス・キリスト」さえ、名前すらろくに知らなかったのだから。
ただただ、若き私の中で、
「自分は日本人である以前に、「自分」という裸の人間であるのではないか」というような思いが高じていったところ、
ほとんど偶然のように、「わたし」という「霊」を強く意識する運びとなり、――その時、あたかも待っていたかのように、目論んでいたかのように、あらかじめ決まっていたかのように、「わたし」のかたわらに、「わたしの神」が、立っていたのだった。
これが、私の「神」を、「父なる神」を、「イエス・キリスト」を、「聖霊」を知った、最初であった。
もしも私に、このような「実体験」の無かったならば――あの時、命の息を吹き込まれていなかったならば――私はとうてい、「神を信じること」などありえなかったに違いない。
私が神を信じたのは、「神によって命の息を吹き込まれた」からであり、それ以外の理由など、何もない。
それゆえに、それゆえに、
私は、いつもいつでも、「ユダヤ人イエス」よりも、「復活したイエス」にこそ、興味を持って来た。
「ユダヤ人イエス」のことなんか、まったく知らない時から、「復活したイエス」をこそ、誰よりも深く知りたいと焦がれ焦がれて、日夜探し求め、尋ね求めて来た。
「ユダヤ人イエス」ばかりでなく、アブラハムでも、ヤコブでも、モーセでも、ダビデでも、ダニエルでも――それのだれであってもいいが、「わたし」以外のだれかが出会った神の話など、よく言って「参考」にしかならず、悪く言えば 「死んだ人間の話なんか聞いたって…」という感想ばかりを、抱いて来た。
今でも、
「ユダヤ人イエス」を知らんがために、ヘブライ語で聖書を読んで、メシアニックジュ―たちと交際して、過越の祭りを祝って…というような、そんな低能なる「ユダヤ人ごっこ」をしていれば、「神」が分かると言わんばかりのカンチガイ活動にいそしんでいるグループや、
「聖書、聖書」とのたまって、マジメに聖書研究をやり続けたその結果、ひり出して来たものが、おぞましき「ナッシュビル宣言」のような、とんでもなくトンチンカンな共同体や、
「贖宥状」に反発したあげくのはてに、得々としてひり出して来たものが、マトハズレもいいところの「予定説」でしかなかったモーマイな宗教革命家とその取り巻きたちや、
――これらのほかにも多々あるが、こういったすべての「ちゃんちゃらおかしい」集合体のいかなるご活動にも、参画する気はいっさいない。
どだい、聖書的に言ってみても、
アブラハム以前の登場人物たち――すなわち、ノアや、エノクや、アベルや、アダムといった者たちは、「ユダヤ人」ではなかった。
「ユダヤ人」でも「イスラエル民族」でもないのに、「生きている神、イエス」と、「顔と顔を合わせて出会い」、立派に「信仰」を持って、生きていた。
ヨブにしたって、彼は「ユダヤ人」なんかではなかった。にもかかわらず、ヨブもまた、「この目をもって、主なる神を仰ぎ見た」と言って、最後まで、自分の信仰を守り抜いた。
さらには、これらの人物が「聖書」を持っていたかどうかさえ、誰も知らないのである――ほかならぬ「聖書」に書かれていない事だから、「持っていなかった」とも言い切れないのだろうが、もし持っていたとしても、それは現代の我々が手にできるような「聖書」でないことはもちろん、「トーラー」のような書物でなかったことも、明らかである。
それでも、彼らは、「神を信じ続けた」のだ。
それゆえに、それゆえに、
なんどでもなんでも、はっきりと言っておくが、
私もまた、たとえ「聖書」なんかなくとも、「神を信じ続けることができる」。
「教会」も、「クリスチャン同士の交わり」も、「あらゆるユダヤ的なるシロモノ」も、すべて、なべて、おしなべて、私にとっては必要不可欠なものなんかではない。
聖書も教会もユダヤも、国や人種や民族やといった、たんなる「上乗せ」にすぎない。
「上乗せ」を支えている神がいたとしても、それは「民族的な神」、「社会的な神」、「公的な神」であり、
すなわち、「誰かの神」、「ヒトサマの神」、「噂に聞いた神」にすぎない。
私が興味があるのは、あくまで「わたしの神」であり、「わたしの神」もまた、あくまで「わたし」にこそ、興味がある。
なんどでも言うが、「わたし」とは、あらゆる「上乗せ」のなくなった「裸の人間」であり、「裸のわたし」にこそ、「わたしの神」は興味があるのである。
それは、さながら、初夜を迎える夫婦のようである。
たとえば、妻が夫にしか見せないような「わたしの顔」にこそ、「わたしの神」は興味があり、夫が妻にしか見せないような「神の顔」にこそ、「わたし」は興味があるのである。
あの思春期の日から、私が胸を焼かれ、心を焼かれ、はらわたを焼かれ、焦がれ焦がれて、追い求め続けて来たものとは、「わたしだけに見せる、わたしの神の顔」なのである。
それゆえに、それゆえに、
ただ一つ、わたしの「信仰」に絶対に必要不可欠なものがあるとしたら、「わたしの神」との交わり、――それだけである。
だからこそ、私はいつもいつでも、「ユダヤ人イエス」よりも、「復活したイエス」にこそ、興味を持って来た。
ユダヤ人イエスは、処女マリアの胎から出て来た時は、たしかに「ユダヤ人」であり、「男」であり…という「上乗せ」がなされていた存在だったかもしれない。
しかし、そんな「ユダヤ人イエス」は死に、「復活したイエス 」となったのである。
「復活したイエス」こそ、「わたしの神」である。
「復活したイエス」こそ、いつもいつでも、共にいてくれる、「インマヌエルの神」である。
なぜとならば、
「復活したイエス」こそ、「イエスという名の神」こそ、あの日、「わたしに命の息吹を吹き込んでくれた神」であることを、私は「知っている」からである。
それが私の「信仰」である。
誰にも、いかなる者にも、私から奪うことも、否定することも、揺るがすこともできない、私の「実体験」であり、「原体験」である。
いちおう、誤解なきように付け加えておくと、
私は「イスラエル民族」も「ユダヤ人」も、「神の選民」であることを、知っている。
主なる神が、アブラハムを召命したのは、アブラハムの系図的な子孫から、やがて「イスラエル民族」が誕生し、その「イスラエル民族」を通して、全世界のあらゆる諸国民たちが、「神の祝福」を得るためだったと、知っている。
それが、神の全人類の祝福のための計画であり、その祝福の「源」であり、「礎」であり、「祝福そのもの」である存在こそ、「イエス・キリスト」であることを、知っている――この世の「アーメンごっこ」や「シャロームごっこ」やをいそしんでいるようなバカどもよりは、ずっと知っている。
「イスラエル」が、「ユダヤ」が、どれほど神にとって大切な「宝の民」であったか、曲がりなりにも「聖書」を読んで来たので、よく知っている。
それゆえに、かつての日に、イエスを十字架に架けて殺したのが誰だったのかも、よくよく知っている。
がしかし、
いや、
だからこそ、
「ユダヤ人イエス」は死に、「復活したイエス 」となったのである――
これ以上に、「わたし」にとって大切な、重要な、本質的な、そしてかけがえのない「真理」が、ほかにあるだろうか…!
もう一度、はっきりと言っておくが、
若き日にあって、生まれたばかりのアダムのような「わたし」に、「わたしの神、イエス・キリストが命の息を吹き込んだ」という実体験は、
いかなる存在も、私から奪うことも、否定することも、揺るがすことも、けっしてできはしない。
それによって、私は「生きた者となった」のであり、
今なお「生きている」のは、すべてすべて、その「命の息」のためである。
この「原体験」に立ち帰る時、私はいつでも、「信仰を揺るぎないもの」とすることができる。
それこそが、私にとって、「神に立ち帰る」ことだからである。
それゆえに、それゆえに、
私にとって、もっとも大切な「わたし」とは、「ユダヤ人ごっこ」をしている私でもなく、「クリスチャンごっこ」をしている私でもなく、「教会ごっこ」を、「聖書ごっこ」を、その他いかなる「アーメンごっこ」をがんばっている私でもない。
この世を生きるための「労働ごっこ」、「家族ごっこ」、「市民ごっこ」…をさせられているような私でもない。
私にとって、そして「神」にとって、「もっとも大切なわたし」とは、ただの、それだけの、身一つの、裸一貫の、生まれたばかりのような「わたし」である。
そういう「わたし」でなければ、「神に立ち帰る」ことができないからである。
そういう「わたし」であればこそ、「復活したイエス」と、「顔と顔を合わせて」、「あいまみえた」からである。
私はきっと、この地上での「軛」を解かれて、「永遠の命」の中に葬られる時も、裸の、身一つの、生まれたばかりのような「わたし」として、葬られることだろう。
いや、違う。
あの若き日の、「アダム」のような「わたし」ではなく、
「復活したイエス」のような「わたし」として、
さながら満開の桜のような、「極めて良い神の国」の中に、葬られることだろう。
私は、そういう未来を「すでに見て」、「すでに生きて」、「知っている」のだ。
それが、わたしの「信仰」である。
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