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X(旧ツィッター)まとめ ①


――
天に輝くあなたの威光をたたえます
幼子、乳飲み子の口によって。
あなたは刃向かう者に向かって砦を築き
報復する敵を絶ち滅ぼされます。
――



2023.12.4
……
『現代日本の開化』という文章の中で、夏目漱石は明治の日本人がいかに西洋人の尻馬に乗りながら、開化だ開化だとバカ騒ぎをくり返していたに過ぎなかったかをあげつらってみせた。(がしかし、例えばつい最近みまかった某ノーベル賞作家などにおいては、まさにまさしく、終生、欧米の尻馬に乗りつづけ、

世界文学のコンテクストだなどいうちゃんちゃらおかしい虚構、妄想の中で、愚にもつかない駄文冗文を積み重ね、護憲だ反原発だ戦後民主主義だとおよそ文学の本質とはなんの関係もない「運動」に血眼になっていた、そんな、明治時代の軽薄な日本人よりもなおいっそうにして軽佻浮薄なエセ文学者たるにすぎなかった。)

で、このような明治から令和の時代に至るまでのさばり続ける「諸外国のトレンドに飛びつくだけ」のバカ日本人であるが、そのような現象のなにも極東の島国に限ったものであるというはずもなく、どの国のどの地域においてもおおよそ似たような「バカ」ばかりでそれこそこの地の面は埋めつくされているというのが、偽りなき現実というものであろう。

すなわち、バカは生まれながらにしてバカであり、詐欺師も生まれつきの詐欺師にほかならず、人殺しは人殺し、偽預言者は偽預言者、怒りの器は怒りの器、、、というふうに、「あらかじめ定められている」からである。 それこそ、「咎のうちに産み落とされ、母が身ごもったときも罪のうちにあった」という言葉の意味

である。それゆえに、まるでまるで開化だ開化だと空騒ぎを重ねただけのかつての蒙昧なる先祖たちのように、宗派だ教義だ神学だと、たかだか欧米あたりの学校でおべんきょしました程度の知識なんぞをもって、自分以外の他人の「尻馬に乗り」、誰かの「猿真似をくり返し」、アーメンだのハレルヤだのシャロームだのと踊り狂っているバカの頂点を極め続けるバカが、

今日ただいまにおいてなおも地の面から絶たれることなく、むしろ畑にまぎれた毒麦のごとくはびこって、根をのばし、やりたい放題のかぎりを尽くしている――。 が、いかに「咎のうちに生み落とされ」、「母が身ごもったときも罪のうちにあった」者であろうとも、同じ「母の胎にいる頃から知られ、選び分けられていた」、すべての「憐れみの器」たる人々とは、そんないっさいにについて、

何も恐れることもなければ、思い煩うにも及ばない。 バカや詐欺師や人殺しやが「文字(聖書)」を手にすれば、それは人の生き血を啜るような宗派教義神学と成り代わってしか、その口から出て来ることのないけれども、 私たちのような「憐れみの器」の中に「神の言葉」が盛られるのならば、それは「憐れみ」という生きた信仰による生きた行いとして、その全身をもって

表現されて来たし、これからもずっとされ続けることが「あらかじめ定められている」からである。すなわち、「噂に聞いた神ではなく、この目をもって神を仰ぎ見た」という言葉のとおり、人の尻馬に乗ったり、猿真似したりする「ごっこ」に明け暮れているばかりでは、人は永遠に、自分の身と心と霊と人生とをもって、

「生きている神」と出会うことなどできはしない。 「今も昔も生きている神」と顔と顔を合わせて出会うことのできなければ、いつどこでなにをしていようとも、その人の行いは、ひっきょう「猿真似」であり、「ごっこ」の域を出ることがない――そして、あらゆる「ごっこ」は、”毒麦”のしるしとして、

截然として「ふるい分けられていく」ばかりである。 世界でもっとも権威のある賞を獲ろうとも、世界でもっとも多くの人間に福音を語ろうとも、世界でもっとも裕福で偉大で知恵と知識と力にあふれた王となろうとも、「ごっこ」はどこまでいっても「ごっこ」であり、造花は香らず、偶像は語らず、空(くう)は空であり

人は人であり続けるばかりなのである。 それゆえに、こんなところでこんなことをばこんなふうに言い続けたところで、バカにはけっして分からなければ、悟ることもない。それもまた、「聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」というふうに、あらかじめ預言されているからである。――そして、これこそが、

誰にも究めることのできない「神の知恵」であり、すべての人を憐れむための「神の計らい」なのである。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」――という言葉のとおりである。 もう一度はっきり言っておくが、いくら聞いても、バカには分からない。

分からないから、どこぞバカは今日もまた、どこぞの人工国家をもって成就だ成就だと祀り上げ、てめぇらのアジトたる強盗の巣をもって救いだ救いだと騒ぎ立て、貴様らの商品たる肉の割礼にも如かない水のバプテスマをもってはしるしだしるしだと詐欺を働く――。 そのようにして、貧しき者はより貧しく、乏しき者は乏しく、

虐げられる者はなおもって虐げられていく――彼らの痛みを癒し、涙をぬぐってくれる者は、だれもいない。それでも――それでもなお、私は「天に輝くあなたの威光をたたえます」「幼子、乳飲み子のような、私の唇によって」――! なぜとならば、私は知っている、「私の贖い主は生きている」――!

たとえ、「アブラハムがわたしたちを見知らず、イスラエルがわたしたちを認めずとも、主よ、あなたはわたしたちの父」―― 「わたしたちの贖い主、これこそ、永遠の昔からあなたの御名である」――のだから! それゆえに、すべて、天上の悪の霊の尻馬に乗る者と、

サタンの集いに属する偽りのユダヤ人たちの猿真似をくり返す者どもとは、裁かれ、滅ぼされ、永遠に地の面から絶ち滅ぼされる。「神は決して逆らう者を喜ぶ神ではなく、悪人は御もとに宿ることを許されない」からである。 またそして、

「乏しい人は永遠に忘れられることなく、貧しい人の希望は決して失われない」のだから――! これこそが、イエスがキリストであったという「ほんとうの福音」であり、これこそが、キリストはイエスでしかないという「けっして失われない希望」なのである。 ―― 聞く耳のある者は聞くがいい ――



2023.12.7
……
この世の中をちょっと睥睨すれば、誰にでも分かることであるが、たかだか大学を卒業し、国家試験に合格した程度の「経歴」をもってすれば、教育、行政、司法、立法等の各機関における要職に就いたり、かてて加えて、たかだか選挙に当選した程度の「経緯」を経れば、政を執り行うことができる――

そのような「仕組み」について、どうのこうのと文句を垂れたいわけでもないのだけれども、ひとつだけはっきりと言っておくが、国家の認証する資格や地位があるからといって、それを有する者もまた、人としての「修養」を積んだ者であるだなどいう事実は、いっさいない。もう一度言うが、そんな事実はいっさい、ありはしない。

それゆえに、いつの時代においても、往々にして人としてむしろ「徳」のはなはだ乏しき連中こそが、金や縁故やのめぐりあわせによって権力を握っては、貧しき者をより貧しくし、虐げられたる者をより虐げたりしながら、史話の表舞台にあって、さも偉人であるかのごとくにふるまってみせて来た――

それがせいぜい、「学校」で教え込まれたり、「メディア」においてかまびすしく喧伝されたりする、「歴史」である。 であるからして、たとえば医師免許を持っている人間が皆手術の腕の良いわけではないように、あらゆる「歴史」とは、羊頭狗肉の国家資格のようなものに過ぎずして、あるいは、

一見よく仕上げられたフィクションの域を出るものでけっしてなく、よって、ひとたびその本質を論じてみたならば、「真実」よりも「虚偽」が横行跋扈する、「宗教」にほかならないのである。 これと同様に、たかだか数百年か数千年の「フィクション」を背景にした、宗派教義神学の旗下の学校を卒業し、

しょせんは「人」にすぎない者による「按手」だかを受けた程度の「経歴」をもって、祭司だ長老だ伝道師だ牧師だ神父だのいう肩書が与えられた事実をば、たかが「人」の集まりにすぎない国家によって「認証」を受けたものと喧伝し、だからさも当然のごとく利潤追求のための法人活動を展開する宗教家たちほど、

嘘と偽りと欺きと穢れにまみれた存在はこの地上にいはしない。 我が国でも戦後の一時期暗躍した、医師免許はなくとも手術の腕はたしかだった「偽医者」のごとく、国家という枠組みからしてみたらしょせんは無法者にすぎずとも、たしかな技術をもってメスを操って、

間違いなく手術を完遂してみせた者の方が、ずっと「本物」の医者であったように、 ありうる限りの宗派教義神学を知らず、いかなる結社集会にも属さず、「歴史」を鼻で笑い、「宗教」を軽蔑し、「国家」によって授けられる認証でも資格でも権威なく、 ただひたぶるに、

不可視の「神」を知ろうとし、不可視の「神」の不可視の教会に属し、「神」の紡いだ不可視の歴史に学び、それゆえに、「神」ただひとりの教えを伝えるべく、「神」ただひとりによって認証され、与えられた本当の不可視の力――それが「信仰」である――を持った者だけが、「本物の宗教家」なのである――とまぁ、

こんなことをば、こんなところにあって、こんなふうに語ってみせたところで、いつもいつも言っていることだが、国家認証なんぞを誇ってみせているような「本物のバカ」には、私の言っている事柄など、終生分かりはしない。分かりはしないし、分かろうともしないから、彼らは自分の誇りであるところの免許や資格やを携えて、「罪」を犯している事に気づかないのだ――。 はっきりと言っておく、

ここで私の言っている「罪」とは、人に対するものばかりでなく、むしろ「神」に対するもののことである。「神」からの試験(試練)を受け、それに合格したからこその「認証」であるにも関わらず、それよりも「国家」ごときの認証をもって、さも「本物の宗教家」であるがごとくにふるまい、利潤追求することが、

「神」に対する「罪」でなくて、いったいなんであるのか。それが「人」に対する嘘であり、虚偽であり、詐欺であり――もっと言えば、恐喝、脅迫、強盗、人殺し、人身売買、、といった「死に至る罪」でなくて、いったいなんだというのか。 「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。

あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。」 とは、まことによくぞ言ったものである。 それゆえに、「本物」を見分ける方法など、極めてシンプルである。「真実」を見分ける方法もまた、簡単である。それは、

「国家」や「人」ではなく、「神」を求める方法と同じだからである。 「神」を求めるとは、可視ではなく、不可視の何かを求めるという行いであり、そして、不可視の何かとは、「人」の中にも実は立派に存在しているもののことである。 が、あえて、分かり易くは言わない。

それは、私が意地も性格もはなはだ悪い、「本物の宗教家」であるからではない――私の知る「神」であり、私が知られている「神」であるところの「イエス・キリスト」から、「狭き門より入れ」という言葉のとおりに書くようにと、言いつけられているからである。 それゆえに――

真実の独り子は感動であり、

信仰の独り子は行いであり、

裁きの独り子は希望であり、

試練の独り子は愛(憐れみ)であるように、

父なる神の独り子は、イエスである――

そして、イエスとはキリストであり、キリストとはイエスのことである

――聞く耳のある者は聞くがいい。――



2023.12.8
……
そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。 しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」

かつてイエスはそう言って、すべての弟子たちから裏切られ、見捨てられ、時の司法の場に引き立てられていった。そのようにして、天上の悪の霊と、その三下であったところの主だったユダヤ人たちの手によって、十字架に架けられて殺された―― すべては「必ず実現する神の言葉」が、その通りに実現する

ためであった。 「お願いすれば天の軍勢を送ってくれる」ような地位にありながらも、「神の言葉の実現」の方をこそ、イエスは「選び取って」、そのとおりに行動した。 これこそが信仰であり、信仰によってなされた選択であり、決断であり、行いである。それらすべての「極み」である。

そして私には、そのようにふるまったイエスの当時の心情がよく分かる。 なぜとならば、今この地上におけるこの瞬間にあって、私もまた、「必ずその通りに実現するという神の言葉」をこそ、ありうる限りのその他のものにも増して、「優先し」、「選び取り」、「信じ」、「行っている」からである。

だからこそ、私には、いかなる恐れもない。 どんなに孤独で、どんなに絶望的で、どんなに恐れおののいて、 エロイ、エロイ…と血の咆哮をあげているその瞬間にあっても、 私はけっして恐れない――人智を超えた平安と力によって、強く、強く、雄々しくありながら、喜びと賛美の歌を歌いあげ、前へ前へと凱旋の行進を続けている。

それこそが、私の信仰と行いによって、私自身にも証しされる「イエス・キリスト」の救いであり、「キリスト・イエス」の勝利であることを知っているからである。 恵み深き主に感謝せよ。その慈しみはとこしへに――!



つづく・・・




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