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清子は、ソーニャではない 1

小説は、答えない。問い続けるのだ。  ミラン・クンデラ
 

全2回に渡って、「清子はソーニャではない」という話をしてみたいと思う。最後の大作『明暗』の続きは、はたしてどうなるのかという、この尽きない議論も含めて。

第1回は、夏目漱石という「人間」に焦点を当てたい。


イギリスの人間ならチャールズ・ディケンズに、アメリカの人間ならマーク・トウェインに、似たような感情を抱くのだろうか。明治時代の最高の文学的エンタテイナーは、間違いなく、夏目漱石その人だった。

漱石の物語とは、おおよそ、「不倫」と「金」を巡る人間ドラマ、である。よく、平日の午後にテレビなんかで見られる内容を、「うんと上品にしたもの」、と言っても良いような。

初期の『坊ちゃん』に始まって、『それから』『門』『行人』『こころ』などは、「不倫」と「金」に焦点を当てて、現代風にリメイクしたら、それなりに面白そうな脚本が、出来上がりそうな気もする。未完の大作『明暗』いたってなお、ごくごく一般的な庶民間の、金と不倫にまつわるイザコザを描いた、ありふれた家庭小説にすぎない。

小林秀雄なんかの言っていたように、夏目漱石は純文学というよりも、大衆文学の作家なのではないか、という説に賛成である。

例えば『明暗』であるが、これは、計188回連載の長編小説を、毎日少しずつ、新聞紙面上に発表したものである。毎日少しずつ発表していくに当たって、作家は、1回1回に謎や山を設けており、はたして次はどうなるのだろうか、と気になって、また読み進めたくなるように、書いている。(こんな長編小説は、世界でも、まず例を見ない代物かもしれない。)

事実、漱石はそのほとんどの作品を、新聞記事として書いた。つまり彼はいつも、いかに読者を退屈させまい、飽きさせまいとして、エンタテイメント性に重きを置きながら、書いたのである。思想・哲学・宗教の作家というよりも、むしろ落語家のような、ストーリテラーに近しく、その文学は明治の人間にとって、現代人の「朝ドラ」を見るような、娯楽感覚だったと想像せられる。

30歳になるまで、夏目漱石の小説の中から、何かを得よう得ようとしていたように思う。いわば、聖書でも読むように、人生における回答や、思想・哲学・宗教の回答やを、見出そうとしていたのかも知れない。

例えば、繰り返し繰り返し、不倫や三角関係を描く事で、作家は何かを追求しようとしているに違いない。ついては、生前自身が同じような体験をした事があるからだという説があったが、文豪は半ば方法的に、不倫や三角関係という構図を利用したはずである。――と思っていた。

漱石の一貫した主張は、「性悪説」であり、「人間は誰しも信を置けない、誰も信ずるに値しない」というものであった。そこで、不倫や三角関係という、きわめて日常的で、かつ多くの人間が経験し易いシチュエーションにおいて、妻を、夫を、恋人を、親友を裏切るような信の置けない人間たちを、繰り返し繰り返し、登場させた。『こころ』の中に、「いいですか、恋愛は罪悪ですよ。」という言葉が出てくるが、そういう事をしてまでも、あるいはそういう結果になってしまってまでも、自らの心の赴く所へ行き着こうとする、人間の「業」のようなものを書き続けた。――と思っていた。

漱石は、そんな人間の一面を「我執」と呼びつつ、人間の業の行き着く先は何なのかという事を、様々な小説に展開した。不倫による社会からの追放→『それから』。極端な疑心暗鬼による狂気→『行人』。恋愛と裏切りによる孤独と自殺→『こころ』。絶え間ない家族間の不協和音→『明暗』。夏目漱石は、不倫や三角関係を利用して、そのような「人間の運命」を描こうとしたのだ。――と思っていた。

しかしそんな読み方は、いささか的外れなアプローチであったと考える、今日この頃である。

最近になって、この文豪の小説には、なべて、そんな運命の続きも、結末も、書かれていはしない事が、分かったからである。「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起こったことはいつまでも続くのさ。(『道草』)」という言葉のとおりに。…

漱石の物語に、思想・哲学・宗教の回答を求めようとしても、時間の無駄だった。ヒントのようなものを感じても、いっこうに見出せなかった。けだし文豪は、そんなツマラナイ事など、書こうとはしていなかったのかもしれない。不倫や三角関係をしつこく書き続けたのも、それが読者のオモシロク読めるテーマだったからなのだろう。(ちなみに、私の大嫌いな「戦後文学」なるもののそれは、セックス描写である。)

そもそも、夏目漱石という人に目をやっても、まず英文学者として、大成しなかった。教師として、成功した訳でもなかった。そして(少なくとも英国留学以降は)、時代の風を身に受けて帆を張り、何事か身命を賭して成し遂げんとした事はなかった。彼は福沢諭吉ではなく、渋沢栄一ではなく、親友の正岡子規でもなかった。しかし、実にそれこそが、「夏目漱石」だったのである。

これは非常に重要な事なので、多少悪口になっても、繰り返そう。夏目漱石は、英文学では挫折して、学問で道を究めることはなかった。教師は腹の底ではやる気が無く、天命を感じた事もなかった。富国強兵・殖産興業には心から賛同できず、文明開化の中心に生きながら、最後まで旗も振らず太鼓も叩かなかった。

しかし、あくまでも漱石の味方である私に言わせれば、文豪は早くから、悟っていたのだ。英文学を究めるべく英国へ留学してより、「漢学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざるべからず」と、半ば発狂しながら確信したように、学問も事業も興国も、どれも所詮、極まらないものに過ぎないのだと、(神経衰弱にかかりながら)諦観していたのだった。同時代に、40歳になって、「結局僕は何者にもなれなかった」と嘆いたロシアの作家がいたけれど、漱石は30歳そこそこで、同じ事を考えたのである。

英国留学以降の漱石は、精神的には『それから』の代助に近かった。自分には、本当に安心したり、誇りに思える教育も、技術も、仕事もない。「坂の上の雲」も消えてなくなった。代わりに、ただ続いて行く日々があるばかりである。ただ続いて行く日々の中、糊口を凌ぐために、金を稼ぐだけである。糊口を凌ぐためばかりでない、見栄の為、体面の為、旺盛な生活慾の為、決して逃れようのない縁故の為、ひたすら身を売って、金を得なければならないのである。「みんな金が欲しいのだ。そうして金より他には何も欲しくないのだ。(『道草』)」

しかしまた、それこそが、多くの日本国民の姿に相違なかった。時代が明治であれ、大正であれ、昭和であれ、平成であれ、令和であれ、少しも変わらない。漱石は、そこに気付いていた。そして明治の時点で、はっきり予測までしてみせた。「(日本は)滅びるね。 (『三四郎』)」と。

こうして、文豪の小説は、予言にもなったのだった。ある心貧しき経済大国の、大多数の小市民の生活感情を、同時代の、そして後世の誰よりも、ものの見事に物語りながら。

夏目漱石を、人間としても作家としても、真の大衆の人だったと捉える時、彼に師事した野上弥生子の方が(漱石のちょうど2倍の年数を生きた人である)、その哲学や思想やにおいて師を越えていることについて、疑いも起らなくなる。

この前提にたって、絶筆『明暗』を読み直していくと、「清子は聖女ではない」、という結論にも達する。(まあ、普通に、無心に読んでいれば、清子が聖女であるなんて、とんでもなくマトハズレな意見は、出て来ようはずもないんだが…。)

漱石は思想、哲学、宗教のどれをも、「あえて極めなかった」人間である。そんな人間が、ベアトリーチェやソーニャやを、生み出す筈がない。清子もまた、純然たる大衆の人である。作家の言葉を借りるなら、「相手にすなまい事をした覚えがある為、天罰により子供を流産してしまった(『門』)」、ただの不幸な女である。

この普通の女、清子を巡って、文豪はどのようなストーリーを練っていたのか。どのような、私たちを楽しませ喜ばせ、そして悩ませてくれる展開を、用意しようとしていたのか。

バラエティ豊かに、数多の個性派登場人物たちを自由に遊ばせながら、一場面一場面を推理小説よりも面白く、老辣無双(ろうらつむそう)に描いてみせながら、つまらないアカデミーでもなく、カビ臭い哲学や宗教でもなく、どんな、最高に面白いエンタテイメントを――

という観点から、次の第2回目の議論を行ってみようと思う。

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