【映画感想】オッペンハイマー
読んで下さりありがとうございます。
『オッペンハイマー』を鑑賞しました。咀嚼に時間のかかる作品ではありますが、時間がたてばたつほどに思ったことが零れ落ちています。
観たときのままの感想を綴っておこうと思います。
史実はネタバレなのか、境界が分からないのですが少しネタバレが含まれるかもしれませんので気になる方はブラウザバックをお願いいたします。
ああ、映画に打ちのめされるとはこういうこと
エンドロールが終わっても、何も考えられなかった。
このまま暗い空間で、座席に身を沈めて目の前で展開されたことを咀嚼したい。そう思った。
映画館で映画を観て、心が締め付けられる経験は初めてではない。なのに、茫然として日常に戻れなかったことは無い。たぶん私は初めて、映画に打ちのめされたんだと思う。
音に操られた3時間。映画館でしか観れない。
もちろん、視覚的にも多くの情報を目の当たりにしたし巧みなこだわりを持って撮影されていることが開始数秒で実感させられた作品だった。
ただ、劇中の音楽が常に観客の精神に横たわり、掻き立てていることの方が個人的には印象的だった。爆弾の炸裂よりも頭からこびりついて離れないのは無音の瞬間なのである。観客を極限までの緊張状態に引き上げて、無音で突き放すのだ。でもその瞬間が一番、ボリュームが大きい。
音に操られているのに無音が大きいなんて、矛盾している。ただ、鑑賞したひとは分かってくれる、と思っている。
もはやこの映画を自宅で観ることはない、と言い切ってしまいそうになるほどだ。書き起こせば薄っぺらいが、凄まじい映画体験だった。
戦争がもたらした技術の延長で生かされる私たち
マンハッタン計画が動き始めるあたりで、オッペンハイマーに投げかけられたセリフが忘れられなかった。
思えば、技術とは豊かな未来を追い求めて発展したものだと思う。
なぜ、それが人類を自ら破壊する強大なものとなったのか。
人々はいつから「より良い未来」のための科学をしなくなったのだろうか。
鑑賞中にふと、『イミテーション・ゲーム』(主演:ベネディクト・カンバーバッチ)という映画を思い出して気づかされた。アラン・チューリングがドイツの暗号機エニグマを解読するために創り上げたチューリング・マシンからコンピュータの歴史は始まっている。コンピュータなしの現代なんて誰が想像できるだろう?
戦時中は飛躍的に技術が進歩している、そしてその技術は私たちが生きる豊かな現代に応用されている。
戦時中に開発されたものとして切り離していた装置たちは、現代と地続きであることを今更ながら意識した。途端に、その技術革新が良いのか悪いのか分からず、混乱した。
「この男が世界を変えてしまった」というコピー
鑑賞前に、公式サイトやフライヤーで目にしたこのコピー。
鑑賞後には、「この男が世界を変えさせられた」のでは?と思うようになった。何に、誰に、変えさせられたのか?私は、思想だと思う。劇中で描かれる「政治」は思想の集まりによる相互作用とみなせるのではないかと感じた。
原子爆弾の投下によって「結果的」に世界は変わった。つまり、世界を変えたのは国際政治的な流れを読み、原子爆弾を作ろうと決め、投下しようと決めた人間なのだ。オッペンハイマーではない。これはゲイリー・オールドマン演じるトルーマン大統領のセリフにもある。
オッペンハイマーは依頼されてその人間が求めた手段を創造したに過ぎないのではないか。オッペンハイマーは都合よく英雄にされ、都合よく世界を変えた創造主としての責任を負わされているように見えた。
プロジェクトに参加した技術者たちは、そもそも世界を変える意識なんてなかったのではないかとさえ思う。彼らは研究者で根底にある学術的な好奇心によってプロジェクトをこなした部分もあるはず。ことの重大さに直面するのは技術を奪われた時。研究者らは使い捨てられた。
大きな主語で感想を言っちゃうかと思ってた
公開前、「被爆国の人間として見なければ」という意見を目にした。私自身の心にも少なからずその思いはあったと思う。
鑑賞後、「(個人的には)大きな主語で感想は言いたくないな」と思った。この作品は、オッペンハイマーという人物の人生のある部分に焦点をおいたもので、「原子爆弾投下」のトピックはまた別ものである。初めからそうであることは理解していたつもりだが、なんとなく「被爆国の人間」という立場でこの作品を観そうだと思っていた。
だからこそ、この国でこの映画を公開することは賛否両論巻き起こるとなんとなく予想していた。
でも、自分の中で議論が炸裂するとは予想してなかった。
鑑賞中に頭がパンクしそうで、ああ私は今どの立場で何を考えているんだろうと、処理が出来なかった。鑑賞後、いつまでも脳内ディベートが繰り広げられている。
おそらく、劇中の誰にも感情移入してないし、共感しなかったんだと思う。映画をみながらここまで混乱したのは初めてだ。
この作品を撮った監督の狙いはなんだったのか?
全員を当事者に。意識してないだけで今も核の時代。
これは、映画作品ではなく主観的な体験ともとれる。大きな主語で感想を言っちゃうかと思っていた私自身にも議論が炸裂した。おそらく、映画の登場人物全員が計画(原子爆弾)に関わる映像で観客を包むことで観客も当事者になるのだ。
日頃意識していないだけで、今も核の時代だしオッペンハイマーの生きた世と私たちが生きる世は同じなのだ。それを突きつけられた作品だった。
おわりに
こんなにもまとまりの無い、長々とした感情にお付き合いいただきありがとうございました。今回のnoteは、スクリーンを退出した直後に携帯のメモに箇条書きで書きなぐったものを題材にしました。またパンフレットを読んだら変わるかもしれませんし、誰かと議論しても変わると思います。ひとまず鑑賞直後の感情はほぼ書き起こせたと思います。
おまけ:リンゴが出ると想像したくなる
リンゴ、禁断の果実。映画に登場するのは運命の切り替わりの時が多いような気がしてリンゴのシーンがくるとゾクゾクします。
そしてこの作品にもリンゴが登場しました…!
オッペンハイマーがリンゴに青酸カリを注入したシーン。
食べられるはずの運命だったリンゴが、オッペンハイマーの手で毒リンゴとなり捨てられる。
オッペンハイマーの手によって世界の運命が変わることを暗示しているようにも思えました。
また、そのリンゴはオッペンハイマーが(瞬間的な)殺意を持って用意したものです。
一晩経過してハッと気づいたかのようにリンゴを見に行きます。リンゴは"標的人物"以外に食べられそうになっていました。誰かがリンゴを口にすることはなく、オッペンハイマーの発言ででリンゴは捨てられました。
これは、オッペンハイマーが原子爆弾投下後の結果を知ったのちの様子に重なるようにも思えました。
ここまで読んで下さり本当にありがとうございました。
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