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終着駅へ行ってみた『ドバイメトロ第1回』ドバイへの思い

21世紀初頭
毎年ドバイへ寄港する船の乗組員だった。

一年のうち半年間はドバイ周辺のペルシャ湾
半年弱日本へ帰国して休養
その繰り返しである。

ドバイには紀伊国屋書店があ~る

当時のドバイは

発展の滑走路を離陸するため速度を上げている
V1(離陸決心速度)の段階であった。

街中にクレーンが林立し
半年間の不在が明けて再訪問すると
街の様変わりが実感できるほど快速で
都市整備が進行中であった。


ドバイメトロの車両は日本製

2007年頃にはドバイメトロの建設は
最盛期を迎えていた。
頻繁に利用したジュベルアリのショッピングモール
にあるスタバで日本人の現場監督と顔を合わせ
会話できるほどだった。

大まかな進捗状況はドバイ政府が発表していた。
日本人作業者が土木構造物関係から
電気信号関係の会社へ変化するにしたがい
完成が間近に迫っているのを実感できた。

「はやく鉄道が完成して欲しい。」

そんな願いは出稼ぎ労働者に過ぎない小生を含め
ドバイに暮らす多くの市民の切望であった。

ジャメイラモノレールは2009年春に開業した。
その時点で厳密にいえば鉄道の無い国と呼べなく
なってしまった。

砂漠の国に本格的な鉄道路線が開業する事は
ドバイの交通渋滞を解決する唯一の手段であった。
ドバイ市街地は急拡大した。

結果として道路のみに移動手段を負担させるには
21世紀に入って限界を露呈した。

急速に膨張した都市に選択可能な代替交通手段は
高架や地下利用による鉄道しかないのは自明だ。

市内をタクシーや路線バスで移動すると
早朝や深夜以外は慢性的な渋滞に巻き込まれる
もはや日常の光景である。

所要時間は高速道路を移動しているのに
自転車の速度で計算しなければ約束の時間が
決められないほどであった。
私の乗った船がもやいをとるジュベルアリ港は
ドバイの中心市街地バール地区より西に40キロ
離れている。

渋滞がなければタクシーでおよそ40分
料金は当時で200AEDであった。
ラッシュ時になると同じ区間が1時間半ではたどり
着かない状況になった。

RTAという公社

が運行するダイムラーの連結バスを
利用すれば所要時間は余分にかかるが
料金は5AED(約150円)と格安であった。
ただしドバイスキーが完成したころから
定時運行の機会にめぐりあえなくなった。

私の船は1カ月に1週間は
ジュベルアリ港へ停泊していた。

船体の整備や乗組員の休息
国内からの荷物受け取りなどのためだ。

寄港の頻度や距離だけを優先すれば
東海岸のフジャイラやオマーンのほうが便利だ。
ただし日本との物流コストや代理店などはドバイが
中東では最も充実している。
なにより安全性も高いのがドバイだ。

乗組員は停泊中毎日上陸できるわけではない
ただし翌日の勤務に支障がなければ
市内のホテルへ頻繁に宿泊した。

ドバイのホテル相場は高価ではなかった。

二つ星から四つ星のホテルなら1万円程度で
宿泊できたためひと月に一度や二度は宿泊していた。

私は満四十歳の誕生日もドバイのホテルで迎えた。
三十代最後の大晦日から元旦の夜も
ドバイ市内のホテルの日本食店で
一人寂しく年越し蕎麦をすすった。

壮年期の働き盛りはドバイとともにあったとは
いささか大袈裟な言い回しだが事実である。

UAEの東海岸フジャイラと西海岸の
ドバイ・シャルジャなどの記憶は次第に薄れていく

それでも鮮烈な体験の断片は
私の脳みその中に深く刻み込まれている。
そう簡単に私の大脳皮質から忘却の彼方へ
移動してくれそうにもない。
 

小生の成長に不可欠な場所ドバイ

しかし私に様々な無理難題を吹っかける
暴君の側面も持っていた。

当時のドバイは成り上がり新参者リゾート
という甘美な場所であった。
新参者ゆえ・・・未整備な点も多かった。
 
現在世界中から人々を吸引する観光都市へ脱皮した
ドバイはさまざまな実験的側面を現実化する
魅惑的な都市に進化を遂げている。

さて・・・私が知っている進化途上のドバイと
現代のドバイを比較するため
ドバイメトロの始発駅へそろそろ移動する時間だ。


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