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【道行き6-3】

【第六章『病院』-3】

隆夫たかおの無事を確認した八雲やぐもは、母親にねぎらいの言葉を残して病室を出たが、母親に呼び止められた。二人は談話室だんわしつで話をすることにした。

「ところで、お話というのは?」

「はい……」

 談話室に入ってから、母親はだまって椅子に座りうつむいている。話の内容は予想がついていた八雲だったが、母親が話し始めるきっかけになるようにと、あえて聞いてみた。

「大丈夫ですよ。隆夫くんに不利になるようなことは、田澤たざわさんには言いません」

「ありがとうございます」

 一晩中考えていたのだろう。母親の顔には苦悶の陰くもんのかげが見える。「考えぬいたが、これを言葉にしてもいいものなのか?」そんな声が聞こえてきそうだった。その声を打ち消すように八雲は言う。

「隆夫くんの罪ですか?」

 ハッとしたように大きく瞳を開き、それからまた俯いて小さな声で母親は「はい……」とだけ言った。

「やはりな……」そう思った八雲だったが、次の言葉は出さずに母親の言葉を待った。一分か二分、沈黙の時間が流れて、覚悟を決めたように母親は話し出した。

「隆夫は…… あの子の罪はどうなるのでしょうか……」

「申し訳ありませんが、私にもわかりません。ただ……」

「ただ?」

「田澤さんからは、隆夫くんはほとんど手を出してなかったと聞いてます。それに今回の事件では二人とも被害者ひがいしゃです。ですから隆夫くんが罪に問われることはないと私は思います」

「本当でしょうか?」

「たぶん大丈夫だと、私は思います」

「でも、あの子には……」

「そちらも大丈夫でしょう。執行猶予しっこうゆうよも終わっていますし、前科ぜんかがあるだけで、何もしていない被害者を罪にはしないでしょう」

「本当にそうでしょうか?」

「納得できないのも無理はない。この人の中では、六年前の記憶がまざまざとよみがえっているのだろう……」八雲はそんなことを考えながら言う。

「ご心配な気持ちもわかります。でも、今ここで私たちが心配したからといって、何かがどうにかなるということでもありません」

「それはそうなのですが……」

「ご主人はなんと?」

「あの人は……」

「ご相談なさってないのですか?」

「はい…… いえ、その……」

 母親の返答を聞くまでもなく、そうだろうと八雲は思っていた。

差し出さしでがましいようですが、ご家族のことですから私にご相談される前に、ご主人に相談なさるべきと思いますよ」

「私もそうしたいのです。でも、あの人はいつも仕事が忙しくて……」

「オーナー社長ですからお忙しいのはわかります。しかし、それは今回の場合理由にはならない。私ならそう考えます」

「確かに、八雲さんのおっしゃる通りだと私も思うのです。でも……」

 私の力ではどうにもできないとでもいうように、母親は力なく項垂うなだれた。

「奥さんのお気持ちもわかります。でも、私ではどうにもできないことです。どうでしょう、私から田澤刑事に相談してみましょうか?」

「そうして頂けると、本当に助かります」

「その後で、ご両親揃って田澤刑事と相談されるのが一番いいと思います」

「よろしくお願いいたします」

 母親は立ち上がり、深々と八雲に頭を下げた。

「わかりました。ご希望にえるよう上手く話してみます」

「ありがとうございます」

 八雲に礼を言いながら、母親は目頭めがしらをおさえた。

 母親と別れ廊下を歩きながら時計を見ると、もう午後の三時を過ぎている。八雲は一旦アパートに戻ることにした。

 病院の正面玄関を出ると、薄い雲の切れ間から春の陽が優しく射し込んでいる。客待ちのタクシーに乗り込み「東警察署まで」と行き先を告げて、後部座席に沈み込むように座ると八雲は目を閉じた。

「あの母親も孤独なのだろう。いや、母親だけでなく父親もか…… 同じ屋根の下に住んで、同じものを食べている。一緒に暮らす家族というコミュニティを作っていながら、どうして人は孤独になるのだろう…… いや、孤独な人間同士が同じ場所で暮らしているだけ、ということか」

 揺れる車の中で、八雲はそんなことを考えていた。

「欲しいと思っている者の手には届かず、持っている者はその有りがたさに気づけない。当たり前という幸せとは、そういうものかもしれないな……」

 言い様のないやるせなさを感じながら、東警察署の前で八雲はタクシーを降りた。田澤のところには行かず、駐車場に停めたままの車に乗る。

「人のことは言えないな…… 根っこの部分は、オレも隆夫の父親と一緒だった……」

 八雲はそんなことを考えながら、一人のアパートに帰った。

 自分のアパートに戻った八雲は荷物を車から部屋に運び入れたのだが、それを部屋の隅に置いたままベッドに寝そべっていた。茉由と隆夫の無事な様子を自身の目で確かめ安心したからだろう、張り詰めていた緊張の糸が緩み眠気に逆らえなかった。

 目が覚めると夕暮れになっている。時間を確かめると、夕方の六時を過ぎていた。

「面会は九時までだったはずだ」そんなことを考えながら、財布とスマホをジャンパーのポケットに押し込んで部屋を出る。途中のスーパーで果物くだものの盛り合わせを二個買い、隆夫の病室を訪れた。

 隆夫のX線検査は救急搬送後すぐに行われたようで、肋骨ろっこつが三ヶ所折れていたことがわかっている。それ以外の損傷そんしょうについては、はっきりしていない。翌日から行われる精密検査の結果次第のようだ。

 病室に入ると、隆夫はすでに眠っていた。

「夕食を半分ほど食べ、顔色も少し良くなりました」

 と、母親が八雲に話した。

「たぶん昨夜から、この母親は一睡もしていないのだろう」やつれた母親の顔を盗み見しながら、八雲はそんなことを考えていた。

「今日は旦那さんは?」

「来るはずなんですが…… なんですか会社で会議があるそうで、遅くなると連絡が夕方ありまして……」

「そうですか…… では、私は下月しもつきさんの様子を見てきます」

 そう八雲が言うと、「なんのお構いもできませんで、すみません」と言いながら、母親は深々と頭を下げた。

 茉由の病室の引き戸をノックする。「はい」という返事を聞いてから、八雲は少しだけ引き戸を開けた。

「こんばんは、どう調子は?」

昌夫まさおさん」

 訪問者が八雲とわかると、ベッドに腰掛けていた茉由は飛び跳ねるように引き戸に近づき大きく開いた。

「これ、遅くなったけどお見舞い」

 照れくさそうにそう言って茉由に果物の盛合せを手渡した八雲だったが、すぐには病室に入らず引き戸の前で立ちつくしている。

「大丈夫よ、父は家に帰りました。今は私ひとりです」

「うふふ」と笑いながら、茉由は八雲の考えを見透みすかしたように言った。

「ふぅ、少し緊張したよ」そう言いながら八雲は病室に入る。

「どうしたの、夜も来てくれるなんて思わなかったわ」

退屈たいくつしてるだろうと思ってね。それにさっきはお見舞いも持ってこなかったからさ、出直して来た」

「迷惑だったかな?」と聞く八雲に、

「バカね、お見舞いなんてそんなのいいのに」

 と言いながら、茉由は八雲に抱きついた。

「うれしい、なんだかとっても……」

 八雲の胸に顔をめるようにして、茉由がつぶやくように言う。そんな茉由を八雲はやさしく抱きしめた。

 少しの間、何も言わずにふたりは抱き合っていた。

「私…… ごめんなさい……」

 そう言うと、茉由は八雲から離れた。

「謝ることはない。若くてキレイな女性に抱きつかれて、怒りだす男は滅多めったにいないさ」

「そんなに若くなんかないわ」

「隆夫くんと一緒だから、今は」

 そう言いかけた八雲の口を、茉由の手がふさいだ。

「意地悪、女の歳をはっきり言わないの」

「いいじゃないか、誰だって必ず一年に一つ歳をとる。これだけはどんな人間でも平等だ」

「そうね、でも本人の前で数えるのはタブーよ」

  ーー続くーー



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