オレンジのかわ
今井美樹の曲にオレンジの河というのがありますが、あれは、さようならともだちではくるしいのほんきだったの、という歌詞が印象的な、昭和の名曲でした。私にとってのオレンジの河は、家からほど近いあの美しい川。朝に夕に遊歩道を歩けば、季節ごとの美しさ、空気の匂い、草花の生命力、晴天でも曇天でもそこにある空の広がりや、行き交う人々、休日の早朝は、土手を降りた水辺の際の石畳で、ソプラノでなにか歌うご婦人がいらっしゃる、その、見出せばいくらでもあるようなすべての自由さに、こころが洗われ、否、現れるようです。
その、現われるこころの中に、オレンジの夕日がすべてを染めて、その中に影となって見えていた義父のすがたが浮かぶ。もうほとんど20年前のこと、自転車をひいて、姿の見えない私を探しに来た。私は泣きはらした目で義父の影を見つけ、気が付いた義父が片手をあげて私に近づいて来ようと自転車のハンドルに両手をかけるのを見て、すぐに踵を返して逃げた。私の手指は、一時間前に握り潰し、壁にたたきつけたみかんのオレンジ色に染まったままだった。
義父が大腸がんとわかったのは、私たち夫婦の結婚前年に亡くなった義母の、新盆が終わった年の冬で、ステージは4で、いろいろとそれぞれがどんよりとしたわけだが、現実の動きとして、いろいろと対応しなければならないことがあった。私たち夫婦と、義父&義弟、の各世帯は、別居はしていたのだが、こうなってしまったので、義父は食事を作ったりするのがしんどい。そこで、朝夕の食事は私が全員ぶんをつくり、朝は義父たちが私たち夫婦の家に来て一緒に食べる、ということが決まった。病人が発生するということは、冷静な思考を失わせるというか、私はその時もちろん会社勤めをしていて、普通に働いていたのだけれど、毎朝、大人四人分(しかも自分以外、他人)の食事をつくることのおかしさに気づかぬまま、それらを頑張り始めた。
味噌汁は季節のものがおいしいからそうしていて、義父は納豆に長芋、みょうが、しそを和えたものが好きで、朝はそれを食べているのを知っていたので、それを作って、それから何か魚を焼いて、あとたまごやき、というのがスタンダードだった。まだ大学生の義弟は食べないことも多かった。
毎朝、6時30分くらいになると、義父が家にやってきて、鍵を使って家に入ってきた。次第に私は、朝の時間に不意に響く、がちゃ、、、という音に胸が苦しくなるようになっていた。おはようのあいさつを交わすときは笑顔を作れたが、食事のあいだや、焦って片づけている間は苛立ちをかんじるようになった。
仕事を終え帰宅すると今度は、夕ご飯を四人分作らなければならなかった。午後7じになるとまた、がちゃ、、、と音がして義父がやってきた。先にお風呂に入りたい日も、ただぼうっとテレビでも見てから食事をしたい日もあったけれど、そういうとるに足りないことが叶わない。日々が重なるうちに、自分がなにをやっているのか、説明できなくなってきた。
そして土曜日の午後、もう夕方が始まるくらいのころ、夕ご飯をつくらなければ、なににしよう、義父も夫も炊き込みご飯が好き、だけど柔らかいのは気持ち悪いっていうから、少し固めに炊き上げねばならない。義弟が解凍されたばかりのマグロの赤身をまずっと言って吐き出したこととかを思い出す。かれはまだ子供なのだ。
たったひとりの居間で、そういうことを考えて、だんだんいらいらしてきて、なんでわたしこのひとたちひとりももともと知り合いでもなんでもなかったのに今この人たちのために時間奪われてこんなに疲弊してるの、こいつらなんなの、親のがんだろ、わたしじゃないだろ、自分たちは鍋持てねえのか、もてないならヘルパーは?なんでわたしなの、やってらんねんよ!となり、思考が爆発して、その爆発はそのままテーブルの上のかごに盛られていた気の毒なみかんたちの爆発をうながした。すなわち、私はおもむろにみかんを掴んで力任せに握り潰し、それを、まだ建てたばかりの新しいこの家の居間の、真っ白な壁にたたきつけた。ひとつたたきつけると、タガが外れたようになり、次々とたたきつけた。白い壁は、みかんの垂れる汁でべちょべちょになり、ヒノキの床につぶれたみかんがいくつも落ちた。オレンジ色の皮が、無残に引き裂かれつぶれていた。
6つか7つそうして、するともうみかんはなくなってしまった。みかんがなくなってしまったので、私はそのまま家を飛び出した。そして川まで時間をかけて歩いてゆき、泣いていた。携帯電話はまだ、肌身離さず持っている時代ではなくて、私は何も持っていなかった。
義父に見つかったそのあと、どうやってそうなったのかを思い出せないのだけれど、私は義父に直接(夫を通してないのは確かに覚えているのだが)直接、話をした。私は皆さんのごはんをつくることはできない、と。理由も話した気がする。義父は根が賢明なひとで、そうかわかった、わるかった、と言った。ただ妻が死んで息子たちしかおらず、女手がないので甘えてしまった、と言った。女手、ってなんですか、という問題はあったけれども、そこまで言うこともなかった。夫にはそう話したと話した。翌日からそのご飯のシステムはなくなった。義父は作れるときは自分で作り、次第に弱ってくるとヘルパーを頼んだ。たけのこご飯や漬物を作れば、義父のところへ届けることも時にはあったけれど、それ以上のことを私はしなかった。
義父がなくなる前日、もちろんまだなくなると思っていない私はキュウリのつけものとかなんかいろいろ作って病室にもっていってまだ生まれて半年くらいだった息子を義父のベッドに遊ばせながら一緒に食べた。このキュウリはうまいなあ、と義父は笑っていた。真夏で、今日みたいに晴れていた。帰り道、おなかの前にエルゴで抱えた息子と私の間は汗と熱気で蒸れて、私は息子のお尻を両手で支えながらいくつかの指に手提げをひっかけて、その手提げの中には空っぽの容器が入っていて、次何もってこようか、と考えていた。
真夏の夕焼けはやってくるのが遅いけれど、晴れた日はいつも必ずやってくる。川のそばの散歩が好きなのは、全然全く義父の影響とかなくて、皆無で皆無すぎてゴールデンカイムなんだけど、ゴールデンじゃなくてそう、夕焼けのオレンジはいつも美しいです。
オレンジの河をみながら、いまは、ためしに、さようならともだちではくるしいの、とか言ってみたりして、たしかにともだちではすこし苦しいけどさようならしたいとはぜんぜん思わない、ともだちではいたい、っていうことも人生にはあるのよね、何が起こるかわからない、現実にも、こころのなかにも、なにが起こるかわからないものだなあ、と思う。今日も夕焼けが来ます。ごはん、なにしよ。
おしまい。
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