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ぼくたちが人権という言葉を発するとき(エスキス#2)

人権とは一体何か。

すべての人間が生まれながらにして持っている権利。

とても曖昧な言葉だ。どうして、そんなものがあると分かるのだろうか? 誰か「ジンケン」なるものを食べたことがある人がいるのだろうか? 春キャベツを食べるように。いやそんなことはできないはずだ。それは人間によって作られたものだから。「ジンケン」はフカヒレやキャビアよりも、珍味——あるいは幻の食べ物——なのである。

まったく教育されていないこどもが、人権という言葉を発したことがあっただろうか? 生まれながらに持っているはずの、その権利について?

その言葉を初めて発した、ぼくの経験に遡る必要がある。ぼくがその言葉を初めて使ったのは、おそらく、学校の授業で作文を書かされたときだ。

「この言葉を使えば、評価されるだろう」

そういう動機だけが、人権という言葉をぼくに書かせたのだ。その実体など、その舌触りなど、全く知らぬままに。「ジンケン」——その響きの魔術性が、そしてその響きが先生の頬をゆるませることだけが、ぼくにははっきりとわかっていた。

魔術。「ジンケン」は、どこかの錬金術師が作り出した言葉なのだろう。あるいはモーセが空からマナを降らせたように、天から降ってきたものなのだろう。ぼくには、この言葉の意味がそれほどまでにわからない。どこに根を持った言葉なのか、ルートが分からない。

ぼくは、金属バットで殴られたら「痛い」という。友人が死んだら、「悲しい」と言う。いったいどのような地上的な出来事が、「人権」という言葉をぼくたちの口に登らせるのか?

はじめて「権利」という観念を抱いたのは、ローマの市民だった。それは奴隷の所有権だった。奴隷は、鞭で叩かれたとき、「わたしたちの権利は!!」とは叫ばなかったのだ。ただ、痛いと言ったか、歯を食いしばったのだ。

それはある「特別な」人間を、「劣った」人間から分離するための言葉だった。

全人類が持つ人権——ぼくたちは、これを信じることができるだろうか? いや、信じることだけが問題なのだ。奴隷を持たないローマ市民に、ぼくたちは狂信のうちに成り下がることを求められている。

空中に向かって鞭を振りつづけ、サディスティックな罵倒の言葉を吐きながら、「俺にはこうする権利があるんだ!」と憤る。すると、向こうから同じ人間がやってくる。彼らは闘争するのだ。無鉄砲な鞭を振り回しながら。

それは地獄よりも地獄である。

鞭を取り上げてやればいい。そして、こう囁いてやろう。

「お前にはどんな権利もなかったではないか。虚構にすぎない権利を放棄するという権利以外には」

そして奴隷と共に歯を食いしばるのだ。それが人間の条件である。人権よりも誇らしい微笑みである。

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