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ゴダール監督『軽蔑』

正確なセリフは忘れたが、映画序盤においてフリッツ・ラングが神に関する言葉を引用する。神々の存在が人類に平穏をもたらすのではない。神々の不在こそが、それをもたらす——そういう内容だったはずだ。

不在となるのは誰か? 映画のクライマックスで、主人公の妻カミーユと、映画プロデューサーのジェレミーが、である。映画の初めのシーンを除き、夫・ポールの態度に不満なカミーユは、結局、このアメリカ人プロデューサーと一緒になることを決める。しかし最終盤、ポールと別れた二人が乗るオープンカーは巨大トラックと衝突する。ポールの悩みの種であった二人は、この世からいなくなるのである。

ギリシャ神話において、オデュッセウスは海の神ポセイドンといくたびも戦うことになる。その度にアテナイの守護神アテナが、彼の困難な状況を変えていくのである。オデュッセウスに限らず、ギリシャ神話の英雄はつねに神々の操り人形である。『イーリアス』の英雄アキレウスも、結局のところは神によって定められた運命に斃れた。

もしもポールを、ギリシャ神話の世界に入れるなら(それこそが本作の舞台的な意図であるが)、ジェレミーとカミーユが、彼の運命を握る神々ということになろう。事実、ジェレミーはポセインドの「子孫」であることが、映像上の繋がりをもって示されている(試写室でのシーン)。そしてまた、カミーユをポールの「ミューズ」と見るなら、芸術の庇護者としてのアテネがたちまちに連想されるのである。

「主人公の意志が全く分からない映画」という批判があったようだ。しかし、神々に操られている人間に、なぜ主体的に意志することなどできるだろうか? そしてそれは、古代から変わらぬ人間の条件である。人間の世界に、真に自由な英雄などいないのだ。いるとすれば、ハリウッド映画の中だけである。

ポールに平穏が訪れるのはいつか。ーー軽蔑の罪に耐え忍びながら、英雄であることを諦めたとき。

そのとき、あるいはときを同じくして、二人の神は死んだ。いや、ポールが(ゴダールが!)殺したのだ。人間を惑わす神秘を消し去るために。

最後にポールは海を眺める。ポセイドンの死んだ後の海は穏やかだった。

ポールのその後の運命は誰にも分からない。同じように、ハリウッドから手を切った後のゴダールが、穏やかだったかは、ぼくには分からない。



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